『抵抗 死刑囚の手記より』(1956)死と背中合わせの圧迫感と緊迫感。

 ロベール・ブレッソン監督作品、つまり“シネマトグラフ”を映画館のスクリーンで観るのは今回が初めてということもあり、普段なら億劫でなかなか行こうとは思わない道のりが、今日はウキウキしながら、奈良から梅田までの一時間余りの移動時間を過ごしました。

 近くのコンビニに寄り道して、今日のお供をするペットボトルを探していると、ジンジャー・エールのサクランボ味に妙に惹かれて、それを買ってみることにしました。結果は大当たりで、口当たりがとても良く、美味しくいただきました。

 まあ、のんびりとしていますが、時間があるのは分かっていましたので、カバンにはロベール・ブレッソンの著作である『シネマトグラフ覚え書』を仕込んでおきました。ぼくは彼のシネマトグラフの切れ味が大好きで、『罪の天使たち』以降の作品に関しましてはすべてビデオやCS放送で見てはいました。

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 しかし、それらはあくまでも放送されたものであり、映画館で映写されたものではありません。『ジャンヌダルク裁判』『田舎司祭の日記』『掏摸』を映画館で観た世代が羨ましい。そして今回ようやく観る機会を得た『抵抗 死刑囚の手記より』は好きな作品の一つなので、喜びも大きい。

 三月末ということで、うちの会社も決算期のため、かなり忙しい状況ではありますが、ブレッソンの方がより重要に思ってしまったので、行動に迷いはなく、お休みにしてしまいました。

 そこまでして見に行ったシネマトグラフではありますが、実は作品自体を観たのは初めてではなく、英語字幕版で三回ほど、フランス語版で一度、ビデオで見たことがありました。

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 もともとセリフの多い作品ではありませんでしたので、英語字幕版に関してはそれ程ストレスを感じませんでした。さすがにフランス語版は厳しく、何を言っているのかよく分かりませんでした。興味深かったのは英語字幕版を見たときのことで、フランス語はすべて英語に翻訳されているのに、占領軍であるナチス側のドイツ語でのセリフはほとんど翻訳されることはなく、単なる音として示される。

 ナチスに人間性や原語の意味など認めないというブレッソン一流の痛烈な怒りだろうか。話はずれますが、人間が他人から受けるメッセージは見た目や動作で9割強で、言語そのものは7パーセントくらいでしかないのだと言うのを友人から教えてもらったんですが、その時に、映画の字幕なしの状況において、言葉が分からなくても、9割強は理解出来るかと言われても無理だろうという話をしました。

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 彼も同意していました。言語を共有する国民同士であっても、理解力に差がある訳で、一概にこの法則は当てはまらないのではないかと思いました。そんなこんなを考えているうちに梅田に到着していました。

 しかし、目指すガーデン・シネマは駅から遠くて15分くらい、多くの人で溢れかえっているであろうヨドバシカメラを横目に見ながら、てくてくと歩いていかねばなりませんでした。やっと劇場まで着き、並んで券を買うと、ようやく落ち着きました。

 せっかく行っても、もし観れなかったら、ショックはより大きい。ぼくは早めに来たので、一番後ろに席を取り、上映を待っていました。開場までに20人程度の人々が順番を待っていました。この劇場は指定席ではなく、早い者勝ちという昭和のスタイルを採っていて、早く入れば入るほど自由に席を取れる。

 つまり席番予約というシステムが無いのです。このスタイルの良さは当日に急に行こうと思ったら、時間さえ早ければ自由に席が取れる。反対にギリギリにしか行けないので、前もって席を取っておこうと思っても、それが出来ないことでしょうか。

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 11時に上映開始と言われ、ボンヤリと待っていると、最終的には30人以上の観客が集まっているようでした。一番早い人は10時過ぎから並んでいたようでしたが、見苦しいほど、早く席を取るために館内をダッシュしたりと妙な行動を連発し、お金を払う前に席取りを済ませたりして、劇場スタッフを困らせていました。

 120人収容のスクリーンに待っている人が20人程度なのですから、のんびり行っても余裕で席を取れるのです。平日に休みを取って、せっかくワクワクして、ブレッソン作品を映画館で観られる喜びに浸っていたのに、少々気持ちが削がれてしまいました。

 作品の見所としてはまずは主人公フォンテーヌ(フランソア・ルテリエ)のモノローグによる一人称の映像の語り口が挙げられる。この視点の存在は特異で、いわゆるサービス過剰なハリウッド映画を見慣れた方は面食らうかもしれません。観客には必要最小限の言葉と映像しか与えられません。

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 一般に映画ファンはほとんどの映画で神の視点、つまりどこで何が起こっているのか、そして誰がどのように考え、どういった行動を取るのかを、登場人物よりも先に見せてもらえる。しかし、この作品では主人公フォンテーヌ(フランソア・ルテリエ)の視点と彼のすぐそばで彼の行動を見守ることしか出来ない我々の視点しかない。

 神の視点を許されてはいないのです。獄中の身近にある道具や家具から代用して、新たに脱出用の道具を整えていく様子、主人公が淡々と脱出計画を実行に移していく様子もリアリズムに満ちていて、ハリウッド映画のあざとい演出にはない迫力がある。

 人間としての基本、つまり生きる目的とそのための目標があまりにも単純に示される。目的は自由を取り戻すために再びレジスタンスに身を投じることであり、そのための第一目標がこの収容所からの脱出であり、手段が道具を整えていくことである。どういう状況であっても、自由を取り戻すために出来ることややるべきことを実行に移していくことが勝利に繋がるのです。

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 やっていることはかなり地味で、まずは懲罰房で15日間を過ごしたあと、独房に移され、この部屋での一ヶ月で、独房から抜け出す“穴”を作り出す。その後の時間経過は作品では明らかになりませんが、さらに一ヶ月近くをロープやフックの制作に当てたのでしょうか。

 彼は軍人(中尉)の義務として脱出に力を注ぐ。しかしながら、この作品に登場するほとんどのキャラクターは彼を応援こそすれ、自分も行動を共にしようとしない。間違いなく、そのまま居れば、銃殺刑が待っているという状況であっても、動こうとはしない。恵まれた環境にいる我々、身の危険を感じない我々には理解できない心理的なストッパーが彼らには掛かっているようでした。

 演出法はかなり地味である。ハリウッドならば、巡回してくる看守だったり、アクシデントによる部屋の入れ替えだったりが発生するであろうし、脱出時の憲兵や秘密警察との派手な銃撃戦等のアクションは欠かせません。

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 それがこの作品では歩哨を殺害するシーンもジャンプ・カットで表現されていました。つまりブレッソン監督が見せたいのは脱出であり、本筋とはあまり関係ない殺害シーンではないのです。

 若い青年ジョスト(シャルル・ル・クランシュ)が味方かどうか判らない状況でのギリギリの判断を主人公の心の中だけで決めねばならない孤独感と人間性を試される描写も素晴らしい。極限下で試される人間性もまたこの映画を語る上で見逃せない。

 画面の見せ方ではカメラは一人称の映画という理由からかクローズアップがかなり多い。それだけ彼の判断が重要で、しかも孤軍奮闘しているという意味でしょうか。また監獄という窮屈で特異な環境の圧迫感を出すにも、クローズアップやバスト・カットの多用は必要でしょう。

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 ただでさえ狭いのに、壁が画面の半分を占め、主人公がもう半分しかない画面上で工作するさまはさらに圧迫感を加えています。もともとカメラで捉えられた時点で、映画における世界はカメラの視野に限定される。

 もちろんカメラの視野の外には世界が広がってはいるのだが、この映画での演出の趣旨、つまり獄中の閉塞感と圧迫感をさらに強めるにはカメラを用いた視野の狭さは必要な演出である。

 中盤から後半に掛けて、主人公が試しに閉じ込められている独房から抜け出し、屋根周りの状況を確認するシーンですら、自由を手に入れる序章に思えてくるし、わずかながらの開放感すらある。計画を実行に移している最中でも、屋外に出るだけで、随分と閉塞感がなくなっていくる。

 まずは彼らは独房を抜け出していく脱出の途中、収容所の屋根に上った段階で、まだ閉ざされた空間内ではあるものの、上下という縦の世界の自由を手にする。あとは画面でいうと左右という平行線上の自由である。

 後半、独房に二人で収容されている時の牢獄の狭さを分からせる撮り方も素晴らしく、言葉ではない動きやカメラの演出によって、レベルの高い映画を撮れることの証明にもなる。

 脱出後に、霧の立ち込めるなかをゆっくりと歩いて、収容所から出ていく場面がむしろリアルでした。収容所周りには当然、官憲や憲兵らが見回りをしている可能性が高いので、彼の冷静な判断に驚かされました。しかも脱出は最終目的ではなく、次にどういうレジスタンスをしていくかという始まりでもある。

 贅肉を極限まで削ぎ落としながら、とても分かりやすい作品に仕上げられている。優秀な刀鍛治によって鍛えられた一振りの刀のような、切れ味だけではない品格のある作品でした。撮影も実際の収容所を使用しているので、ロケーションは完璧ですし、演者もプロの俳優を使わない、彼一流のモデル主義を貫いています。

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 最後にモーツァルトによる音楽の力強さにも触れねばならないでしょう。必要最小限に使われる、三度かかるモーツァルトの「荘厳ミサ曲ハ短調」はどれも深刻に響いてきます。中でも映画のラスト・シーンを告げる“FIN”のクレジットが出て、画面が暗転した後に、1分以上もそのままの状態で演奏が続いていきます。

 オープニングでモーツァルトが掛かる時、われわれ観客はこの収容所で生き残れたのは一万人のうち、三千人であったことを知らされていました。再度これが掛かるというのは彼ら犠牲者を思い出して欲しいというブレッソンのメッセージではないだろうか。

 観客はこの時間に自分が何を観たのか、自分ならあの極限状況でどう行動していただろうかを自問し、犠牲者の悲惨な最後に冥福を祈るべきなのでしょう。そこまで観なければ、この映画を観たとは言い難い。

 先ほども書いたとおり、今日、劇場に一番乗りしていたのは40代後半に見えた男性でしたが、それほどまでして席を確保したくせに、彼は“FIN”と共に去りぬという有り様でした。最後の暗転の意味を考えずに、我先に飛び出していった彼はこの作品を鑑賞したと言えるのだろうか。

 映画は画面に“完”や“THE END”“FIN”が出たから終わるのではありません。フィルムがすべて巻き終わり、スクリーン内が明るくなって、自分の気持ちに整理がついた時が終わりなのです。

総合評価 94点


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