『詩人の血』(1930)偉大なるジャン・コクトーが残した彼の芸術の真髄と映画の可能性。

 二十世紀フランス芸術界の至宝であり、詩、映画、演劇、絵画など縦横無尽に活動の場を行き来した天才芸術家ジャン・コクトーが、1930年というサイレント映画とトーキー映画の分岐点とも言える時代の狭間にあって、100万フランの予算とともに自らの芸術性の赴くままに、好きなように制作したアヴァンギャルド映画がこの『詩人の血』でした。

 冒頭コクトー監督はこの作品を「表情、形式、身振り、音楽、幕数、場所を自由に選び、非現実的な出来事を現実にした記録映画である。」と宣言する。彼は演出家であり、脚本家であり、音楽家であり、美術監督であり、編集も兼ねている。まさに彼の芸術性の全てのエッセンスを一時間弱で、目の当たりにすることの出来る稀有な作品でもあります。

 奇抜な映像が全篇を覆いつくすので、面食らう方も多いかとは思いますが、そこで使用されている撮影テクニックはいたってノーマルで、基本は固定カメラである。カメラが動き回るのではなく、あくまでも人物が主体的に動いていく。カメラが動き回るのが才能ではない事をはっきりと示している。

 固定カメラといっても、そこに映し出される映像は奇抜であり、まったく飽きがこない。これはバランスを常に意識した構図(敢えて崩したり、シンメトリーを意図的に使ったり、既視感をさりげなく利用するセットやモチーフの使用方法)、画面(舞台)上でのリー・ミラーを中心にした役者のパントマイム的な動き、オンとオフの音の使い方の妙とジョルジュ・オーリックのつけた素晴らしい音楽、モンタージュのセンスが優れているためにもたらされたものである。

 これらの要素を統合するのはジャン・コクトーその人の哲学であり、彼の持っている才能の片鱗を映像で端的に表したのがこの『詩人の血』である。洗練された文学的な臭いがするのはそのためであろう。文学に比べると情報量が少ないので、浅薄に感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかしそれを補って余りある映像美を堪能できる作品です。

 評価すべきは芸術の色々な可能性を試そうとしたジャン・コクトーの革新的な、そして好奇心に溢れた感受性にあるのではないでしょうか。すでに名声を得ていた彼にとっては海の物とも山の物とも知れない映画に携わる事は大変な冒険だったのは明らかであり、それでも敢えて映画制作に突入したのは芸術家として何者をも恐れない彼の自分自身の信念に対する正直さが出たからでしょう。

 撮影テクニックとしてはその他にもパン、ティルト、ドリー、ピント合わせの面白さと移動、露出の変化、トリック撮影、クロース・アップが使うべきところで使われている。余分な贅肉を極限まで削ぎ落としているにもかかわらず、提示された世界観は詩情に満ち、豊かな映像美に溢れている。台詞も必要最小限に減らされ、イメージさせる楽しみを観客に提供しています。

 四幕物の演劇仕立てに構成されたこの作品は、高く聳え立っていた塔が軋んで倒れそうになる瞬間から、二つに折れて倒解してしまうまでの、ほんの一瞬の時間に起こった出来事であることをまずはわれわれ観客に知らせてくれる。

 「傷ついた手、あるいは詩人の傷跡」「壁に耳あり」「雪合戦」「聖体のパンを汚す」の四幕からなっている物語は断片的なイメージが次々に紡がれ、見る者をコクトーの世界へと誘っていく。一幕目の「傷ついた手、あるいは詩人の傷跡」には有名な鏡へ飛び込むシーンがあります。単純なトリック撮影なので今の目で見ると他愛無い映像だと思う方もいるかもしれませんが、これが撮られたのは1930年なのです。

 個人的にはいまでも十分にショッキングな映像だと思います。鏡のこちら側と向こうでは世界が変わるのだ、鏡がその入り口だとするコクトーの世界観はシュールであり、詩的である。美しい鏡と水の映像、そして未知の世界を彷徨う暗闇の映像がとても美しい。このときの叫ぶような効果音の使い方も絶品でした。

 詩人の手に口が出てくる悪夢の映像は芸術の狂気を示すとともに、彼の手によって、はじめて彼の持つ世界観を「雄弁に」語ることが出来るのだという比喩でしょうか。洗面器に手を入れるとブクブク泡を吹いてきたことによってはじめて彼の手に口が生まれてきたことに気付くシーンは何度見ても不気味です。

 同じように口が身体の一部分に出現してくる作品としては『アンダルシアの犬』があり、同じアヴァンギャルド映画での比較で言えば、『アンダルシアの犬』が動的で血の臭いを強く感じるのにたいして、『詩人の血』は洗練された静的な死の臭いを強く嗅がせてくれる。スペインとフランスという風土と文化の違いであろうか。

 床と壁を組み替えて、作られたセットが生み出す違和感とアンバランスな世界観、天井に張り付く子供の薄気味悪さは今でもフィルムの中に生きている。平衡感覚を揺さぶってくるコクトーの挑戦的な態度を当時の文学界や観客はどのように受け取ったのであろうか。フィルムに定着された世界はフィルムが滅びるまで永遠に生き続けていく。

 なによりも覗きこそが映画の基本であるという根本概念を1930年に提示しているのです。ゴダール監督が『映画史』の冒頭で、ヒッチコック監督の『裏窓』を使って表現していたことを70年近く前に見せていました。

 映画の本質である覗きの感覚、オンとオフの音の使い方、暗闇と光のコントラスト、トリック撮影の妙味、編集の巧みさを駆使して作り上げられたこの作品にはその後の映画の進むべき道筋がはっきりと示されていました。

 映像も斬新で、センスに溢れ、フィルムの一コマ一コマでも十分に芸術として機能してる作品です。フランス映画を知る上ではジャン・コクトーを避けては通れない。エイゼンシュテインやグリフィスを避けて映画史を通れないように。

総合評価 92点

詩人の血【字幕版】



ジャン・コクトー—幻視の美学 (平凡社ライブラリー)
平凡社
高橋 洋一

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コクトーが愛した美女たち
講談社
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サティとコクトー—理解の誤解
新評論
オルネラ ヴォルタ

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この記事へのコメント

シュエット
2009年05月15日 09:18
おはようございます。
本作拙文ながらTBもってきました。
ずっと前にみたのですが、きっとその時ははぁ~とばかりに観ていただけで…今回もそうなんですが、ブログ記事するために映像を言葉で辿っていくと、あらためてあぁあの映像はこういうことか!と感じることしきり。
映像の一つ一つに実に鋭い意味を有している。
改めて偉大なる!です。
記事の最後に私の拙文フォローいただこうと、勝手に用心棒さんの記事を紹介させていただいてます!
事後承諾ごめんなさい!
2009年05月16日 20:24
 シュエットさん、こんばんは!
>事後承諾
いえいえ、どんどん使ってくださって結構ですよ。トムさん、シュエットさんにご利用いただけるのなら、書いた甲斐もあります。

 この映画からは濃密なイメージがあふれ出してきていますし、いまも生命力を強く保っています。何度も見ましたが、どう書いてよいのかいつも迷い込んでしまった作品でしたので、思いつくままにただ書き連ねたのがこの文章です。

 コクトー作品はこのほかにも7本ほど見ましたが、高い壁であり続けています。消化できる日が来るかは分かりませんが、分からないながらも書いていかねばとも思っています。ではまた!

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