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『アルジェの戦い』はアフリカ大陸に位置するアラブ諸国のひとつであるアルジェリアが、宗主国である侵略者フランスから多くの犠牲者の血の代償を払いながら、念願の独立を勝ち取った過程をセミ・ドキュメンタリー・タッチで描いた60年代映画の傑作である。 監督であるイタリア人、ジッロ・ポンテコルヴォは素人俳優を多数起用したことによって、ロッセリーニのネオリアリズムを継承するような生々しい、そして殺伐とした雰囲気をフィルムに定着させた。ロッセリーニ監督の『無防備都市』以来の衝撃度でした。60年代では廃れていたと思われていたであろうネオレアリズモの遺伝子は彼によって、しっかりと引き継がれていました。撮影を務めたマルチェロ・ガッティも多大な貢献をしました。 革命のリアルな内幕を描くドラマ部分の演出に加え、挿入されるドキュメンタリー・タッチのフランス軍とFLNとの軍事衝突するモブ・シーンがフィクションとは思えないほど強烈な真実味と迫力を与えている。イタリア映画の音楽といえば、この人しかいないというエンニオ・モリコーネもさすがの貫禄を見せつける。 第二次大戦で、ナチス・ドイツにより抑圧されていたフランスがようやく解放されて、本来の国力としたたかさを取り戻すと、途端に帝国主義の産物である植民地経営とその権益防衛に心血を注いだのはなんとも皮肉である。 『パリは燃えているか』ではフランスを支持したであろう人々も、この『アルジェの戦い』では敵に回っている。制作したのがイタリア人だったのも痛快だ。まるで「お前らのやってることも同じだろ!!」と言っているようだ。守る側より、攻める側に勢いや躍動感、そして観る側のシンパシーが生まれるのは当然である。 ポンテコルヴォ自身もかつてはファシストに対するレジスタンスに参加していたこともあり、ファシズムはもちろん、民主主義や共産主義にいたるまで、思想への懐疑と幻滅があったように思える。そのため彼はフランス軍の残虐性のみならず、アルジェリア民族戦線自体の粛清、女性や子供を使った許されるべきではない無差別報復テロ、民間人への銃撃シーンなどもきちんと隠すこともなく撮影している。 作品としては素晴らしい出来映えとなっている、この映画はフランス人たちにヴェネチア映画祭では拒否された、いわくつきのフィルムでもあった。第二次大戦時に、ナチの抑圧からの自由を叫びながらも、いざ自分たちが解放された後になると、かつての自分たちと同じ立場にある人々に対して、圧力を掛け、自分たちの既得権益を守ろうとするフランスのさまは醜く、どれだけ正当化しようとも、そうした欺瞞は許されるべきではない。 自由というオブラートに包まれた帝国主義は勝ち続ける限りは正義である。民主主義というオブラートに包まれた帝国主義も勝ち続ける限りは正義である。第二次大戦に勝利した連合軍側も、「悪」と呼んだ枢軸国側となんら変わりがなかったことが60年代に証明されたにすぎない。 思想は民衆のためにあるものであり、政治の道具にしてはならない。宗教にしろ、思想にしろ、本来は民衆が生きるための指針として用いられるべきであって、権益を主張するためや権力を得るために使用して欲しくはない。キリストもマルクスも民衆のために説いたのであって、政治家のためではない。宗教戦争も根を辿れば、しょせん権益の争いに過ぎないのではないか。それを宗教という美名の下に行うのである。利用する者が悪であり、宗教が悪いのではない。 ナチス・ドイツとの違いは何だろうか。それは勝ったか、敗れたかのみである。決して正義か悪か否かではない。幸い民主主義陣営のシステムの方がファシズム陣営や共産党主義陣営よりも、緩やかな支配をしたために機能していただけである。 このアルジェリア独立戦争にしても、もしも現地のアルジェリア人がフランスに敗れていたならば、単なる暴徒を鎮圧したという事件がフランス側の歴史記述で短く伝えられていただけなのかもしれない。『パリは燃えているか』ではドイツもフランスも、同じヨーロッパ人であるという共通理解が根底にありました。 しかしこれは文化も宗教も違うアフリカ人との戦いなのである。ここではフランスの論理など通用しない。日本やドイツで、四十年代に破綻した帝国主義がまだ機能していたフランスやイギリスは約20年遅れで、そのシステムの限界を味わったにすぎない。何の反省もしていないのは、その後の歴史が物語っている。 「人々により、そして人々のために」。これはアルジェリアの標語である。国歌中にもフランスへの忘れられない恨みが刻まれている。1954年から1962年までほぼ十年間内戦を繰り返したこの国の独立とプライドは血の中から生まれたものであるので、何があっても、大国にけっして屈しないであろう。 映画の見せ場は数々の衝突のシーン、とりわけクライマックスである革命の戦士であったブラヒム・ハギアグの爆死シーン、その後に起こる動乱での戦車を使った市街戦シーンであろう。とてもフィクションとは思えないほどの生々しい軍事衝突の様子はまったく古びておらず、いまも血の匂いを放つ。 テロの手法や組織論も明確に描かれていているのも興味深い。三人一組にして、それ以外の仲間についてはお互いに面識もないような形態をとることで、フランス軍に芋づる式に逮捕されるのを防ごうとしていたり、ゼネストを決行して国家の機能を麻痺させたり、イスラム教自体を利用して、どうしてもボディ・チェックが甘くなる女性を爆破テロの実行犯として起用するなどしている。 これに対するフランス側の対応もまた適材適所である。第二次大戦中のレジスタンスの英雄である指揮官(ジャン・マルタン)をアルジェリアに派遣し、レジスタンス運動を根絶やしにしようと目論む。その手法は拷問であり、抜き打ちの検挙であり、スパイを潜り込ませることであり、リーダー格の人物たちを捕まえることでの頂上作戦的な組織の壊滅であった。レジスタンスのメンバーだったからこそ知っていた、革命へのノウハウを今度は征服するために使用するのはなんとも皮肉であった。 指揮官役のジャン・マルタン、革命側のリーダー役のブラヒム・ハギアグの演技は素晴らしく、彼らなしではこの映画は語れない。また彼らの周りを固める素人俳優たちの素朴な演技、さらに彼らを取り囲む群集のモブ演技が渾然一体となり、当時の様子を忠実に再現しました。女戦士たちの覚悟を表す決死の目も忘れがたい。爆死前に死を悟ったブラヒムの澄んだ目も記憶に残ります。 音楽の効用も素晴らしく、フランス軍の軍事作戦による緊迫したシーンに流れるメイン・テーマはもちろん、女戦士や民衆が蜂起するときに流れる、ビートの利いた鼓動のような、そして地響きのような太鼓をベースにした力強い音楽がとても印象的でした。 総合評価 97点 アルジェの戦い(トールケース仕様) アイ・ヴィー・シー 2002-11-25 ジッロ・ポンテコルヴォ ユーザレビュー: とてつもなく面白い映 ... 「テロとの戦い」とは ... これからどう見られる ...Amazonアソシエイト by ウェブリブログ |
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『パリの灯は遠く』@〜実存主義的テーマのリアリズム〜
映画『パリの灯は遠く』を監督したジョセフ・ロージーは、コミュニストであったがために、1950年代の「ハリウッド赤狩り」によって、アメリカ国外に追放されてしまったハリウッド映画関係者のひとりでした。本人自らもアメリカ人としてのナショナリストではなく、ヨーロッパでの非ハリウッド的作品を創作する演出家の道を模索していくことになります。 これは、非常に困難を伴う選択肢だったようです。国外への追放の履歴を隠すために、やむを得ず四つもの氏名を使用しなければならなかった経緯は、『リング』で有名な中田秀夫... ...続きを見る |
時代の情景 2008/07/06 15:48 |
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やはり精力的に観られてますね。 |
シュエット 2008/07/03 10:22 |
用心棒さん続き。 |
シュエット 2008/07/03 10:23 |
シュエットさん、またまたこんばんは! |
用心棒 2008/07/03 20:22 |
用心棒さん、コメントを躊躇っていました。いわゆる先進国で、のうのうと生活していることを考えると、このような作品を語る資格があるのか否か。つらいです。現在のイラク、チベット、アフガンに関わる問題もこのような作品から学ぶべきことは多いのでしょうね。 |
トム(Tom5k) 2008/07/06 16:29 |
>続き |
トム(Tom5k) 2008/07/06 16:30 |
トムさん、こんばんは! |
用心棒 2008/07/06 20:31 |
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