『ゴダールの映画史』(1998) 全8章を覆いつくす「性」と「死」のイメージ。

 難解極まりない、1998年製作のゴダール監督による『ゴダールの映画史』の各々の章について見たことへの感想です。 

『1A』  まず全ての歴史が語られます。まずはアメリカ・ハリウッドの権勢と扇情主義(「映画は女と銃である」byグリフィス)そして世界支配、ロシア革命とその後の動向(エイゼンシュテイン・プドフキン・レーニン)、ナチス・ドイツの台頭と侵略(フリッツ・ラング、ルビッチ、ヒトラー)・・・。

 これら三つの軸のせめぎあい、真っ只中に行われるホロコーストに代表される大虐殺、全ての焼け跡から生まれ出てきたネオレアリズモ(象徴的に使われる『ドイツ零年』と『カビリアの夜』)。映画はその時何を伝え、何を伝えられなかったのか。

『1B』 映画の歴史が語られます。「映画は芸術ではなく、技術ですらない」衝撃の言葉が飛び出してきて、不安に陥れます。映画の歴史は「女」と「銃」。性欲と暴力への強い衝動。「音」が「映像」に及ぼす影響力の増大。結局のところ、映画とは「ポルノ」、「暴力」、「美」、「死」、そして「支配」なのだ。

 もっとも印象に残るのはロベール・ブレッソンが『シネマトグラフ』に残した言葉でした。
 「ひとつの映像がそれ自体で、何かを明瞭に表現したり、解釈を含んでいる時は他の映像と合体しても変化しない。他の映像の影響を受けず、他の映像に影響しない。作用も反作用もない。映画の体系ではそんな決定的な映像は使えない。」。まさにモンタージュのことを決定的に言い尽くした一言でしょう。タイピングの音、『サイコ』のテーマなどこの章は最も音楽が効果的に用いられている。
 
『2a』 この一大ロマンの中には何度も出てくるキーワードがいくつかあります。その全ては『1a』から『2a』で示されます。
  「命がけの美」、「絶対の貨幣」、「モンタージュ わが美しき悩み」、「闇からの回答」、「新たな波」など全篇を通して繰り返される言葉が最初の三篇で出尽くします。
 この『2a』では『狩人の夜』、そしてボードレールの『悪の華』の引用が多く用いられます。もっとも美しい章かもしれません。

『2b』 「命がけの美」、つまり「性(生ではない)」と「死」のイメージがつむがれていく。ドイツ表現主義での性と死、アメリカンスタイルでの男女のショットの意味(俳優は銃(性器)とともに腰の位置から、女優は胸の位置で)、など性を表現してきたカメラの目。感覚的だった映画。それに理性が加わることによって映画の質が捻じ曲げられた。

 反対に感覚のみに走り、ポルノと暴力の罠に嵌まった映画。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』、そしてサビーヌ・アゼマによる『ウェルギリウスの死』の朗読。英語で書けば、「FATAL BEAUTY」となるこの章は致命的な美の物語である。この章で印象に残る映像は『偉大なるアンバーソン家の人々』。

『3a』  アメリカ映画の支配と、唯一それから免れたイタリア映画の特異性を軸に展開されてゆく。
虐殺についての言説から始まるが、それは現代についてのことではなく、ユーゴーが19世紀の事象について書いていたもの、つまり人間は長い時代を経ても何一つ学んではいない。

 現実にある、悲惨な事象に目を背けがちなハリウッドと正面から向き合ったイタリア。戦勝国と敗戦国の差からくる現実の捉え方の違いでしょう。言い換えると、フィクションとリアリズムのせめぎあいでもあります。現実的で飾らないイタリア・レアリズモの前ではハリウッドは誤魔化しでしかない。

 アントニオーニ、フェリーニ、ヴィスコンティ、デ・シーカ、ロッセリーニのフィルムが度々引用されていく。だが、レアリズモも永遠のものではなく、悲惨を忘れたがり、繁栄を望む大衆の中に徐々に埋没してゆく。映画とは悲惨なものでもある。悲惨な事柄を描き出すことで得る栄光もあるのです。しかし永遠のものではない。
 「お話を作ると問題はなく、作らないと問題だらけ」。まさに現実をありのままに示した場合に、製作者にふりかかるトラブルを端的に表した言葉です。

『3b』 自分達の生み出したムーブメントである、「ヌーヴェル・ヴァーグ」について語られていくこの章では、アンドレ・バザンへの賛美と感謝がさまざまな古典映画を通して示されていく。グリフィス、ルビッチ、ホエール、エイゼンシュテイン、ラング、ムルナウ。彼が持ってきて上映したこれらの映画を貪る様に吸収した若者達。

 その中にいたゴダール、トリュフォー、リヴェットその他、後にカイエに集ったライター兼監督達に与えた巨大な影響。古典を学ぶことにより、自分の位置を理解する若者達は、映画文法の基礎を叩き込まれてから、アメリカ映画、そして既成の作品に対して、彼らなりの創造的破壊を始めていく。

『4a』 「宇宙のコントロール」、つまり世界支配についての事です。ヒトラー、アレキサンダーなど多くの独裁者は一時の間は大衆の目を幻惑したが、あくまでも一時のものでしかなかった。それに対してヒッチコックはその監督作品全てで観客、すなわち大衆を魅了し続けた。彼は大衆を支配し続けたのだ。
 
 「セザンヌのリンゴは1万人が見た。『見知らぬ乗客』のライターは10億人が覚えている。『断崖』でジョン・フォンテーンの渡されたミルクの意味を覚えている」。このときフラッシュのように『海外特派員』の風車、『鳥』の電話ボックスと逃げ惑う人々、『白い恐怖』の影、『汚名』のワインなどが我々の記憶を呼び覚ます。ゴダール監督が言いたいのはヒッチ賛美ではなく、映画が大衆に及ぼす影響力の大きさではないか。

『4b』 この8章までをずっと見てきて思うのですが、ゴダール本人が最も影響を受けてきたのは以下の10人の映画監督なのではないでしょうか。これらの監督の作品の断片をかなり使っているのでそのように感じました。

 チャールズ・チャップリン、ロベルト・ロッセリーニ、アルフレッド・ヒッチコック、D・W・グリフィス、フリッツ・ラング、セルゲイ・エイゼンシュテイン、オーソン・ウェルズ、ハワード・ホークス、F・W・ムルナウ、そして溝口健二。そうそうたる顔ぶれです。

 第8章に戻りますが、「死」のイメージで埋め尽くされる、最終章で語られるのはゴダール本人による、内省と回想です。結局のところ、映画に意味はあるのだろうか。あるとすれば、それは何か。歴史とは何か。人間とは何か。突き詰めていくと行き当たるのは人間とはいかにという、哲学的問題である。人間に必要なのは時間であり、そして空間である。

 映画に必要なのは映像であり、音であり、言葉であり、時間である。どれか欠けても成立しない(サイレント作品もありますが、当時は弁士だったり、楽団がいて作品を盛り上げていたと言う事実があるので、音も存在していたのです)。

 また映画自体も、それのみでは存在する意味がない。作品である映画、それを作る映画作家とスタッフ、それを観る観客の三者が揃って始めて価値を持つのが映画なのです。唯一の大衆芸術であり、唯一の総合芸術である映画こそが全ての芸術を語る資格がある。道具(機能する芸術であり、ナイフや服も含まれる)、建築(映画ではセットなど)、音楽、文学、演劇、絵画(写真も絵画の一種である)からなる6つの芸術を全て含んだ第七芸術としての責任が映画にはある。

 だから映画は「夢の工場」なのです。ここで紡がれた膨大な映画の数々はひとつひとつ完結するものではなく、全ての映画が全ての映画の歴史となります。クズだろうが、傑作だろうが全ての映画は繋がっているのです。時代にかかわらず、国にかかわらず、映画は螺旋状につなげられる。

 全ての映画を繋げる映画的なもの、それがモンタージュなのです。『サイコ』を見た後に『断崖』を見ても良し。その後に『雨に唄えば』を見ても、『散り行く花』を見ても良いのです。ひとつの作品から、別の作品に繋いでも成立するのが、いわばマクロのモンタージュなのではないか。意味を持ち寄るのはそれを見た観客なのだから。

 まことに点数のつけにくい作品群ではあります。解り難く、膨大な時間を費やさねば観終わることも出来ません。4時間半にも及ぶ、この作品はさまざまな解釈が可能ではあります。どれも正解とはならない巨大な塊ですが、映画への愛は確実に存在します。それさえ感じ取れれば十分なのではないでしょうか。
総合評価 95点
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