『理想の観客とは…。』映画を観るために不可欠な基礎的観察能力を養うには何が必要だろうか?

 誰でも映画を観た経験はあるでしょう。小さい頃、親に手を引かれ、アニメか特撮か、それともはじめから大人向けの映画を観たかもしれません。そうした経験が基盤となり、映画ファンになっていく人も多いでしょう。自分もそうした一人でした。もしかすると映画館には行かないが、毎週地上波TVで放映される番組を通して、映画に触れる方も多いでしょう。むしろ映画館組よりも、地上波TV組のほうが大多数を占めるのではないだろうか。

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 一見、映画に貢献する映画ファンを作るには地上波TVの影響力を使った方が良いように思える。しかし、それは邦画に限ったことである。むしろ洋画の場合、地上波TVは悪しき影響を与えることの方が多い。なぜなら地上波TVの放映は基本的に字幕ではなく、吹き替えであるためである。

 いくら声優ががんばったところで、オリジナルの俳優の演技には遠く及ばないし、口と言葉が一致しない画面を見て、白ける視聴者も少なくないのではないか。そもそも何故吹き替えなどが必要なのであろうか。文盲率が極端に高い国ならばいざ知らず、この国で吹き替えをする意味がまず分からない。

 子供が読めないから、吹き替えが必要だとでも言うのであろうか。読めないなら、読めるように手ほどきするのが親の役目であろう。なぜ子供基準に大人が合わせなければならないのであろうか。ディズニー・アニメなら納得も出来るが、シリアス物や雰囲気を大事にするヨーロッパ映画に吹き替えなどは無礼であろう。

 俳優の演技を否定する吹き替えはなくすべきなのではないだろうか。誰に向けて、吹き替えをつけているのであろうか。百歩譲って、吹き替えをするのであれば、副音声で処理してもらいたい。オリジナルの音声と映像を観てこそ、はじめて製作者や俳優たちの真の姿がおぼろげながらでも、見えてくるのではないだろうか。

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 昔はNHKでは洋画には字幕をつけて放送していたと記憶しています。いまから30年以上前の夜か夕方にルネ・クレール監督の『リラの門』をオリジナル音声と字幕で見た記憶があるのです。もう小学生だったので、ある程度の漢字も理解できたので、普通に鑑賞していました。

 オリジナルらしいフランス女の「ジュジュ!」と呼ぶときのセクシーな声が耳にいまでも残っています。これがもし普通に日本語吹き替えなどされていたならば、まったく記憶に残らなかっただろうと思います。違う言葉もあるのだと、外国語に興味を持つようになるきっかけを放送局側が奪うのはいかがなものであろうか。

 せっかく高い放映料金を払うわけですから、なにもわざわざオリジナル俳優の演技を超えることなどありえない声優を使って(声優を貶めているわけではありません。アニメならいざ知らず、普通の洋画に不必要な吹き替えなんて要らないと言っているのです。)、経費を増やす必要性があるのかといいたいのです。

 映画での良いシーンほど、吹き替えによる口パクの悪影響が出てしまう。ラブシーンでの盛り上がっているところ、アクションシーンでの決定的瞬間に出る顔のアップでその影響は甚大である。一気に白けてしまうのは当然の反応ではないだろうか。

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 またファンの人たちも、普通に日本語をしゃべる大物ハリウッド俳優たちに違和感を覚えないのであろうか。デニーロ、ニコルソン、フリーマンなど現代を代表する演技派俳優たちの演技をせっかく見るのであれば、オリジナルに勝るものはないと断言します。わざわざ異物を入れてしまい、違う映画にする意図は不明なのです。

 表題である理想的な観客とはずいぶんと離れてしまいましたが、どうせ観るならば、オリジナルを観るべきでしょうというのはご理解いただけると思います。まずは大事な本質のひとつである音楽(台詞も音楽です。俳優独特の話し方や言い回し、話の間の取り方、そして訛りを楽しむのも一興です。)の部分を弄りまくる危険性についてでした。

 音響もTVで見るとかなりガタガタになりますが、すべての家庭でフロント・スピーカーとリア・スピーカーを備えるわけにはいきませんので、ここが犠牲になるのはやむを得ないでしょう。ただし、ミュージカル、戦争映画、派手なアクション映画、特撮映画など、特定の映画ジャンルにおいては大画面と音響がすべてのものがありますので、TV放送だけで判断しないでほしい。

 「もしかすると、この映画は劇場で観たときに真価を発揮する映画かもしれない。」という想像力を持って、映画を観ることができるかというのも理想的な観客への道のひとつになるでしょう。

 細かい部分にまで目が行き届いている映画は昔のものに多い。なぜならばもともとが映画館で掛けるために作られているので、細かい部分までが観客に晒されてしまうという意識からか、B級作品はいざしらず、ハリウッドやヨーロッパのものなどはきちんと仕事をされているのです。

 現在は映画館は昔よりも圧倒的に大きなスクリーンで上映されますが、画面への細かいこだわり自体が見所になってしまうという本末転倒になっています。丁寧な仕事をするのが当たり前の時代の映画と編集とCGでなんとかなるさ、という時代の作り込み段階での温度差が出ているような気がします。

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 お金を掛けているはずのジブリ映画ですら、息子の作った『ゲド戦記』などはあまりの仕事の雑さにウンザリしました。大画面での粗雑な仕事は言語道断であり、宣伝費に掛ける10パーセントでも作品のクオリティを高めるためにに回してほしい。ジブリでもそういう状況なのです。今年はおやじさんが出てくるので、期待して観に行きたい。

 実写映画でも、俳優や組合の時間拘束の制限のためか、芝居が甘いというか、キャラクターの作り込みが出来ていない、やっつけ仕事のような状態にもかかわらず、テイクを重ねていない演技が目立つ。TVドラマならともかく、DVD化されたりして、かなり長い時間、どこかで見られ続ける映画でさえこういう状況なのは憂うべきことではないでしょうか。

 次に問題になるのが映像言語を理解できるかという受け手、つまり観客の問題も大きい。なんでも台詞にならないと理解できない、TVドラマ世代の想像力の欠落は映画にも影響が出ている。映像の意味を理解しない、もしくは考えたことすらない世代が圧倒的多数になっている現実への表現方法としての対処と弊害は製作側にももちろんありますが、受け手の責任も大きい。

 キャラクターの内面すべてや舞台設定を台詞で語ってしまう馬鹿らしい映画は大量に溢れ、増産され続けている。今後もさらに増えるでしょう。なんのために映像があるのか。キャラクターの位置関係やカットの積み重ね、カメラの撮り方によって変わる映像の意味などを考えながら映画を鑑賞すると楽しみは倍加します。なぜならそれは作り手の考えを知るというワンランク上の楽しみを与えてくれるからです。

 ただの暇つぶしに使うならば、「面白かったぁ!」「つまんない!」でいいでしょうが、いつまでも子供みたいなことを言うのは止して欲しい。映画ファンを自認するのはかまわないが、ただストーリーだけを追うのは映画ファンとして恥ずかしいことだと自覚すべきでしょう。視野を広げるともっと深い世界がその映画にはあるのですから。

 今回は「音」、つぎはキャラクターの「位置取り」とカメラの「視点の変化」、つぎは「色使い」などというふうに見方を変えていくと一本の映画からどれほど多くのメッセージを受け取れるようになるか想像してみてください。お気に入りの映画を何度も観てください。また自分が映画を観るときに見方が偏っていないかチェックしてください。

 この作業に慣れてくると、一時に演技・演出意図・音響・ストーリー展開などが頭と感覚に入ってくるようになります。新作を観る人ならば、「そんなに何回も高い金を払ってまで観れないよ!」と言う声も上がってきそうですが、観る前の段階で、あらかじめ上記のようなことを意識しておくだけでも、一本の映画から受け取れるメッセージ量は膨大な量にまで増えてきます。一度お試しください。一本の映画でも書くことが増えすぎてくるのを実感できるのではないでしょうか。

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  ここまで書いてきましたが、理想的な観客とはどのようなタイプかについて、まったく書いていないことに気づきました。基本的には映画だけではなく、音楽、絵画、デザイン、建築、文学、演劇など幅広い芸術を愛好する映画ファンを想定しています。第七芸術である映画を理解するためには上記の六つの芸術について、まったく興味がないというのでは観客としての幅が広がりようがない。

 ただし、いくらこれら六つの芸術に精通しているからといっても、そういう人が完全な映画ファンになるかというとそうでもない。映画を愛しているか、これがもっとも重要なのです。テクニカルな部分のみを理解しているから、完璧なわけではない。ただ分析するのは観察者の視点であって、愛好者のそれではないかもしれません。

 冷静に分析しつつも、熱く一本の映画にのめり込んでいけるファンこそが理想的なのではないでしょうか。「あれがダメ!ここがダメ!でも楽しいなあ!」とか「最低な映画だったけど、あそこだけは良かったなあ。」とか、しみじみ言える保護者的な観方を出来る人が立派な映画ファンなのかもしれません。

 サッカーのJリーグを昔はよく観に行きました。当初は勝ち負けにこだわりましたが、最後の方は贔屓の選手が怪我をせずに元気にプレーしてくれたら、それで良いやあ、という境地にまで達しました。映画にも同じような感覚を待てるようになれば、もっと楽に観れるかもしれません。

 いろいろ書いてきましたが、観客がレベルアップすれば、製作側も質的な部分を切磋琢磨せざるを得ないのです。「面白かった!」と軽々しく言わない観客になりましょう。どうしても言いたければ、「これこれこうだから、面白かった。」と理由を説明できる観客になりましょう。

 日曜日は『ランボー4』『ヴァンテージ・ポイント』を観ました。

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この記事へのコメント

2008年05月27日 22:14
用心棒さん、こんばんは。
私は、いつもの通り、映画は娯楽であり、深く理解できるにこしたことは無いですが、全員がそうではなく、何かを感じることができれば、「面白かった。」でもいいと思っています。
が、鑑賞する際には集中してもらいたい。吹き替えは、画面への集中を損なわせる危険性をふくんでいるような気がします(家での鑑賞の場合等)。論外なんですけどね。
そして、演技として、言葉がわからずとも、吹き替えでは、おっしゃる通り、ダメなんですよね。その演じている役者のテンションでないと。いかに優秀な声優がアテようとも、ダメだと私も考えます。(ただ、コロンボとイーストウッドだけは小池朝男と山田康男をイメージが強いのですが。いきなり矛盾で、すみません・・・・。)
また、私は鑑賞側に関係なく、製作側は映像と効果的なセリフにこだわってほしいと思います。そこがなくなるとTVの某脚本家のように、視聴者を信用しないから全部セリフで説明してしまうというバカな本に、そして画になってしまうと思います。
2008年05月27日 22:14
また、気軽に鑑賞し、その回数を増やしていけば、もちろん集中して鑑賞すればですが、あの私は、その感想なりをうまく表現できる必要なないと思うのですが、集中して、ストーリーをおうだけでも最低いいので、集中して話は理解してほしいんですよ。セリフをひとつひとつ、きちんと耳にしてほしいんです。
それを重ねていけば、映像読解力とでもいうのかな、多くの画をみれば、アングルや、カメラワークなど、いろいろ気がつく点が自然に養われてくると思うんですけどね~。だから、とにかく、難しく考えないで、多くの映画をみて、とにかく集中して鑑賞して、何かを感じてくれればそれでいいと。その何かが自然と増えていくのではないかとおもうんですけど・・・。
2008年05月27日 22:14

>お気に入りの映画を何度も観てください。

これは正に同感です。見方をかえて楽しむということが同じ作品でもできますよね。そして、何回もみているのに、新しく気づくことっていうのがけっこうあるものです。
ただ、素直な目で、映画を楽しんでほしいですよね。幾ら集中しても、重箱の隅をつつくがごとくアラをばかりをさがして、批判することが通のようなバカは考えをもたずに、映画を愛してみてほしいですよね。
長くなりましたが、『理想の観客』になるためには、おっしゃる通りだと思います。
では、また。
2008年05月28日 23:34
 こんばんは。
 映画に限らず、どんな芸術やスポーツでも押さえるべきポイント、つまり勘所というのがあり、そういうポイントを押さえるためのアイデアを提供できればそれでよいと思っています。

 そこが基本で、こういう文章を書いております。観ていても、「自分が観ているのは映画だが、どれだけ本質を捉えて観ているのだろうか、どうやったら、もっと多くの情報を映画から受け取れるのだろうか」という疑問を持つ人たちの手助けになれば良いと考えております。

 ずっと映画を観続けるのであれば、少しでも製作者の意図を含めて理解したい。「なぜ、こういう撮り方なんだろう?こうだとダメなんだろうか?」とかを考えるようになると楽しいですよ。ではまた。
トム(Tom5k)
2008年05月29日 01:10
用心棒さん、こんばんは。
映像が視覚に訴えるとき、それはすでにメッセージであり、すなわち文字や言葉や文脈であるわけで、それにはまずそれらが映像のどれにあたるのかを、受け手は学ばなければならないように思うのです。
われわれ見る側はその映像における文章を読み取り、解釈し、そしてその行間までを理解し、沸きあがってくる心象を生活に結び付けていかなくてはならないのではないでしょうか?
ここに危険なことは、受けた映像を自ら解体して自分なりの意味と働きかけを確定させることに怠慢にならざるを得ない受動的体質が、映像文化には存在することです。
よほど意識的にその心がけに努めないとトリュフォーの『華氏451』がリアルな時代になってしまうような気がします。
ナチス党のプロパガンダとなってしまったレニ・リーフェンシュタールにおいての復権の問題もその部分が整理されて、初めて正当な評価が一般化していくように思います。
では、また。
では、また。
2008年05月29日 09:05
 トムさん、こんにちは。
>自分なりの意味と働きかけを確定させることに怠慢にならざるを得ない受動的体質
まさにそこなんです。「面白い」という感情と感想のみに終始し、「何故そう思うのか?」という部分を放棄すると、派手な面白さやカッコよさの裏側にある底意地の悪さや安易さに気づかない観客を大量に生産してしまい、さらにレベルの低下を招くのではないかと思います。

 レ二もそうですが、東映のようにヤクザ映画などで彼らを美化するような間抜けな映画会社のせいで、いったいどれほど多くの若者たちが人生を誤ってしまったかと考えると、映像文化の持つ危険性にあらためて恐怖します。

 こちらでも紹介しましたが、『獣人雪男』『狂気人間』『ノストラダムスの大予言』など人権問題その他でお蔵入りさせられる映画が多くあるのに、なぜああいう安易なヤクザ映画がそうならないのかが不思議です。
 だいぶ横道にそれてしまいましたが、面白いと感じる映画には安易で危険なものも含まれていることを意識すべきでしょう。実際レ二の作品はとても綺麗で、考えるより先に、視覚がまず虜になります。ではまた!

 
豆酢
2008年05月30日 00:35
Tomさんが、奇しくも拙宅でコメントしてくださった内容とリンクしていると感じましたので、おずおずと書き込ませていただきます。
映画はいつからベラベラベラと饒舌になったのでしょうね。まるで、人の話を全然聞かずに一方的にしゃべりまくる私の母のようです(苦笑)。
サイレント映画の時代には、映像には音も色もありませんでした。その代わりに新しい映像テクニックを取り入れ、それを独自のカラーに昇華する工夫に必死であったように感じます「裁かるるジャンヌ」にしろ、細かい演出の積み重ねで圧死させられそうな威力を生み出していましたしね。
音がつき、色が生まれ、各種の技術が会得され、映画は急速に力を失っていったような気がします。環境が豊かになればなるほど、映画自体の魅力が薄くなっていく。薄い映画ばかり観るようになった私達は、自らの感受性を動員して映画から言外の意味を感じ取る努力を放棄してしまいました。結果として、映画はますますレベルを下げていって…。悪循環だなあと思います。
映画を楽しむために、私達観客も努力しなければならないと最近痛切に感じます。
2008年05月30日 19:22
 豆酢さん、こんばんは!
 制約が多いほど、工夫が生まれ、自由度が高いほど滅茶苦茶なものが新たな可能性のように持てはやされる。悪循環のスパイラルはどんどん加速していきます。
 観ていて、背筋が寒くなってくるような、わざとらしい、ご都合主義の予定調和が蔓延し、それを観て「感動した!」などとのたまう愚かな者がいる。それを放送する馬鹿もいる。
 若いカップルは「ヤベえ!スッゲエ!おもしれえ!」と彼らの頭の内容を披露するような空虚なコメントのみを残し、それを宣伝に使う馬鹿な映画会社がある。
 ドリフ的に言うと「だめだこりゃ!」となります。「次行ってみよう!」
 ではまた!
トム(Tom5k)
2008年05月31日 01:44
用心棒さん、どうも
学校教育でも音楽は教科とされています。美術の時間でも絵画や彫刻、写真などは一定程度学習します。演劇も部活動や文化祭・学芸会で触れることができます。が、映画とまでは言わずとも、映像そのものの基本体系の学習は、どの教科のカリキュラムにもありません。視聴覚教育といっても教材ソフト等を選定してTV受信機を使用するだけです。教授の方法として機器を利用するだけに留まっています。
芸術・文化のなかで極めて生活に密着している映像文化が教育カリキュラムに欠けていることは近代以降の国家戦略として如何なものかと感じます。IT革命のもっと前に、そこが抜け落ちている。
今はもう、まず、観客は映画とは何か、というところから、好奇心を持つことが必要なのでしょう。学習する前に映像文化がわかりやすくなりすぎ、一般化しすぎてしまった悲劇なのかもしれません。
では、また。
2008年05月31日 09:51
 トムさん、おはようございます。
>映像そのものの基本体系の学習
 これは必修でしょうね。映像に騙されないためにも、映像の意味を学ぶのは有意義ですね。
 編集自体でどうにでも視聴者を操れるのはエイゼンシュテインやリーフェンシュタールがすでに証明しておりますし、そもそも現実的ではない、ハリウッドの予定調和やシークエンスの構成も観客の意識の中で、当然のもののように刷り込まれています。
 スティーブン・キング原作の『ミスト』は久しぶりのバッド・エンディングでしたので、とても新鮮に感じました。
 情報過多な時代が良いか悪いかといえば、何も知らないよりは良いと答えますが、受け取る側の読解力を育てるには、系統だった知識の勉強は不可欠でしょうね。ではまた!

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