『五感で楽しむ映画』せっかく映画を楽しむのに「目」と「耳」だけではもったいない。

 朝な夕な、まだ肌寒い日々をだらだらと暮らし、さまざまな名作及びカルト映画を何気なく観ていると、ふとした瞬間に画面に集中しつつも、一方で思い巡らせている時があります。それは映画を「観ている」という時は「目」だけでなく「耳」も、そして、もちろんそれらを統合して理解するために「目」「耳」とともに「頭」も相当働いているということです。

 何を今さら当たり前のことを言うのかと思う方もおられるかも知れませんが、トーキー以前では映画はサイレントだったわけでして、楽団や弁士はいたものの映画の作り手たちは基本的に音や台詞に頼らずに、映像だけで登場人物の感情や作り手自身の情念と思想を表現しなければなりませんでした。

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 どうやって表現したかといえば、いわゆるパントマイム的な大袈裟な演技で表すこともあれば、クロース・アップやカット割り、映像の繋がりを重視したモンタージュ、光と影のバランス、または人物の位置関係などを駆使した、いわゆる映像文法を用いていました。

 そして観客は脳裏に刻まれてきた、人間生活における常識と経験を用いて、瞬間的にそうして表現された映像を判断していました。当然各々の経験の多寡や深浅により、受け取れる情報量には格段の差は存在します。

 そのため意識するしないに関係なく、観客にも想像力、人生経験と演劇などの素養が求められました。昔は地方を巡業する旅回りの劇団がいましたので、観劇の下地は備わっていたはずです。製作者も上手下手、勧善懲悪など演劇の常識を映像制作に使用しました。

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 サイレントに多い固定カメラの視点は劇場での観客のそれです。今の目でサイレントを見ると、その演技はわざとらしく滑稽に映るのかもしれませんが、また基本的に動かないキネティック・パワーの欠如した映像に退屈してしまうかも知れません。

 しかしながら、もし現在の映画から音が消えてしまったら、何割の観客が映像の意味を正しく掴めるのであろうか、それははなはだ疑問である。意味を語れていない映像が氾濫している中で、基本に立ち返って、つまり映像文法を理解できるのかはかなり疑わしい。

 ちょっと話は横路に逸れますが、日本映画が一部を除き、海外で不振な原因はセリフに頼りすぎることが大きいのではないだろうか。もともと日本語という巨大な言語の壁が海外への飛躍に大きく立ちふさがっているのに加え、映像自体に海外の人々が共感出来る人類としての普遍性がなければ、日本映画の海外制覇は夢のまた夢であろう。

 また残念ながら、日本映画界は国内のみで完結してしまっている。最初から世界を相手に戦っていないのである。個人的な見解になりますが、ゴルフを例に取ると、国内の賞金王よりも、アメリカ・メジャーでの八位に価値があるという立場です。同じくテニスを例に取ると、全日本選手権の王者よりも、ウィンブルドンでのベスト16に価値があるという立場です。

 なにが言いたいかというと、彼らの視線は常に世界を相手にしているし、頂点に昇るために、努力を惜しまないということです。小さく国内での栄光にしがみつかずに、高レベルのステージで自分の価値を試しています。

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 なぜ日本の有名な映画監督はチャレンジしに海外へ行かないのか。英語が出来ないからなどというのは理由にはならない。黒澤明監督はアメリカやロシアで可能性に賭けました。成功したとは言えませんが、挑戦する行為そのものに大きな価値があります。

 巨匠と呼ばれる彼でも、様々な理由があったにせよ、海外を相手に仕事をしてきたのです。心地よい場所で小さく収まらずに、どんどん有名な人々は世界に目を向けて活動してほしい。

 話を戻します。映画でよく見られる撮影テクニックのほとんどは1920年代から1930年代に出尽くしていました。そこへ『ジャズ・シンガー』とともに「音」が映画に加わりました。何も考えずに映画を観るきっかけとなったのが、このトーキー技術の登場である。

 音楽と台詞で登場人物の感情を容易に表現することが出来るようになりました。またここから凡庸な製作者による台詞で語ってしまう映画もスタートしてしまいました。マイナス面も生まれましたが、「目」と「耳」を得た映画はさらに分かり易さを武器にして、爆発的な支持を大衆から受けていきます。

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 そして、この映画で重要な「目」と「耳」で受け取った情報を解析し、楽しむために必要になるのが知性と感性、そして映画体験を含む人生経験なのではないでしょうか。しかしまだ今回のテーマの五感のうち、視覚と聴覚のたった二つにしか過ぎない。

 この二つだけでも、観る者の感情を大いに揺さぶりますが、人間にはまだ触覚・嗅覚・味覚がある。触覚は映画館では音響による振動を感じるくらいでしょうが、他の観客との「袖触れあうも他生の縁」も触覚に含まれるかもしれません。

 デートに行ったら、手を繋ながら観ている人もいるでしょう。小さい頃に親に手を引かれ、一緒に連れられて劇場で観た映画も生涯記憶に残っています。立ち見で壁にもたれながら観た映画もありました。野外上映会でスクリーンが風で揺れる映画もありました。風を感じる経験はシネコンでは絶対にない。

 こうした「触覚」はたまに思い出すこともある。『ニュー・シネマ・パラダイス』で壁に映写するシーンがあります。みんなニコニコしながら映画を観ている。僕がああいう経験に近いものを味わったのは小学生時代に一度だけでしたが、今でも忘れられない。

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 つぎに嗅覚。芳醇な香りがする「匂う」映画とかが出てきたら楽しそうですね。春の花やプロヴァンスの花畑、もしくはオランダの花畑で、花が満開のシーンなどで、もしそこに咲いている花の香りが館内に溢れたら、なんとも幸せな気分に浸れるでしょう。

 新たな流れとして香りのフェチシズム映画が増えるでしょうね。フランス映画などは良いものを作りそうです。ただ『ソドムの市』とかは勘弁して欲しい。誰も最後まで見ていられないでしょう。また酒臭いオッサンや口臭がヒドい輩がとなりに来ると最悪な二時間が訪れる。

 また劇場の構造や空気の流れ方によって、トイレの臭いが立ち込める最低のところもあります。映画より臭さしか覚えていない作品もあります。大映系の映画を掛ける映画館でそういうことが多々ありました。

 味覚はさすがに劇場では難しい。しかし家でDVDを見ながらなら、また複数回見た作品ならば、そのシーン再生時に同じものを食べたり、飲んだりすることが可能だ。まあ、もちろん味は違うでしょうから、疑似体験にすぎませんが。そもそも映画を観ながら何か食べるという習慣がないので、ポップコーンなんて論外です。

 つぎに五感とは言っても、人それぞれ感じ方は違う訳で、音感を刺激するものに激しく感性を揺さぶれる人もあれば、視覚を刺激するものに激しく感性を揺さぶれる人もあれば、知性を刺激するものに激しく感性を揺さぶれる人もあるでしょう。

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 それは各々の感受性によって変わります。それは受動的な個性とも呼べるのではないでしょうか。ここが発達していない人が鈍感、発達している人が敏感なのでしょう。次の段階はそれをどう他人に伝えるかです。アウトプットする、つまり能動的な個性もまたある。

 とても良い感じ方をしているのに、他者へアウトプット、つまり意見を述べないのはもったいない。どんどん自分の中にある疑問を他者に向けて発信していくべきでしょう。神様ではないので、みんな間違えるし、100パーセント正しい意見などありえません。

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この記事へのコメント

シュエット
2008年03月10日 19:50
用心棒さん。映画って人それぞれ受け止め方って違いますね。こうやってブログはじめて、観た映画の感想書いてるんですけど、解説ぽくってどうもギクシャクしていて、随分と悩んだものです(笑)。感性を揺さぶられるというより直感型の私には、感じたまま、惹かれたところ、胸に引っかかった言葉、そんなところから書き始めないと私の言葉にならないなって思ってからは、映画雑誌とか読まなくなった。参考にするのはデータだけ。どう好きなのか、どんな風に胸に沁みこんできたのか、沁みこみ方を言葉にしている。このシーンが好きだわっていっても、人によって違いますものね。だから余計にその時々の心の有り様で受け止め方も違うときもある。ブログはじめてから感じたことを言葉にしていくということでは随分と鍛えられるなって思います。
シュエット
2008年03月10日 19:55
(続き)それと若い時ってなんて鈍感で表層的にしか観ていなかったなって、若い時にみた映画を見直すと随分とそう思う作品も多々あります。言葉だけが先行して、襞まで読み取れていなかった。逆に心の襞をじっくりと見せてくれる作品なんかにであうとノックアウトですね。
小説でも映画でもそうですけど、私は作品を通して作家その人の心の有り様も知りたい。なんで彼はこれを撮った?、書いた?ってとても気なる。これも私の入り方なんでしょうね。
シュエット
2008年03月10日 19:59
記事に反応して、更に私ことで申し訳ありません。長々と続いてしまいます)
右脳左脳診断ってあって、私インプットもアウトプットも直感型みたいで、後天的に論理的アウトプットを身につけたようです。だから用心棒さんとかプロフェッサーさんとかの知的かつ論理的文章は、大いに私を刺激してくれ、私の論理不足を補ってくれるようで、非常にありがたい。なにせ理論構築できない発想しているもんですから。これは卒論でもはや立証済みでした。頭に浮かんだ発想とか言葉から入っていかないと次の言葉がうまく引きずり出せない全く不器用な性分。今後ともよろしくお願いいたします。長々と話し込んでしまい申し訳ない。
2008年03月11日 00:40
 熱いコメントをいただきまして、どうもありがとうございます。シュエットさんにこれほど熱く語っていただいただけで、作者としては大きな喜びでございます。この文章もお役に立てて何よりです。
>感じたまま、惹かれたところ
ぼくもそうですよ。自分の感性に引っかかったイメージや製作者の思いが強く出てきているところを捉えて、そこをきっかけに文章を書き始めて行きます。
 そうやって心にもやもやが溜まってくると、やっと文章を書き始められます。そのため更新には随分と時間が掛かります。
 オカピーさんのように、毎日書き続けられている方を尊敬いたします。
 こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします。ではまた!
 
オタクイーン
2008年03月11日 21:37
TB&コメントありがとうございました。
実力は無くとも現場経験だけは長い私の立場から言わせて頂きますと(笑)基本的にどんな映像作品も「視覚・聴覚を刺激し、観客の感力を喚起させる」事でストーリーを成り立たせています。貴記事の反芻になってしまいますが、観客は画面に映し出されるイメージ表現を脳で一度過去の経験と照らし合わせ、「風が冷たい」などの触覚、「美味しい」などの味覚、「いい匂い」などの嗅覚に変換する訳ですね。ですから未体験の出来事は想像するしかない。作り手としては、そこをどう「観客の体験に近づけるか」「理解しやすくするか」に苦心する訳です。映像作品の歴史はその「表現」の歴史と言っても過言ではないでしょう。
黒澤明の「野良犬」で、夏の暑さをヨシズ越しの日差しで表現し、観客に猛暑を体感させたように、映像表現はある意味「視覚と聴覚のみだからこそ進歩した」とも言えるのです。
難しいのは、前述の触覚、味覚、嗅覚などの感覚表現が可能になった時、映像表現の方法も変革を余儀なくされるという事ですね。単にこれまでの映像表現に「匂いが付くだけ」という程度の表現にはならないと。
オタクイーン
2008年03月11日 21:44
続きです。
クリエイターとしては間違いなく、例えば「ここは匂いが来るから、映像はこう撮る」など、「他感覚を意識したカット割り」になるはずなんです。そういう意味で、これまでの演出は通用しなくなるかもしれませんね。
ともあれ、視覚・聴覚のみの映像作品を観客側からより深く理解しようとすれば、おっしゃる通りそこには「感力の鍛錬」が必要となるでしょう。
感力を鍛える事。それはそのまま、感じた事を自分の言葉で表現する能力にも繋がります。
私達観客はこうしたネットの場を通じて、その部分をお互い切磋琢磨しているのかもしれませんね(笑)。
長文失礼しました。ありがとうございました。
2008年03月12日 14:52
 こんにちは!
 視聴覚以外の様々な感覚を作品上映時に取り込めたならば、これまでの撮影技法だけでは間に合わなくなりますよね。
 例えば綺麗に着飾っている舞踏会シーンであっても、集まっている人々の醜さを表そうとすれば、鼻の曲がるような匂いをBGS(Smell)を入れてもいいわけですし、演出に幅が出来ますね。

 これまでの視聴覚に嗅覚を加えるだけでも新たな展開が生まれるかもしれません。そう考えるとまだまだ映像作品には無限の未来もあるのかなあと思ったりもします。
 ホログラム映画などの可能性も試して欲しいところです。ではまた!
2008年03月16日 01:17
用心棒さん、こんばんは。
非常に興味深い内容の記事、拝読させたいただきました。
え~と、非常に申し上げにくいのですが、もちろん、映像を鑑賞しながら想像力をはたらかすという意味での五感、つまり「目」と「耳」という意味でかたられているのだと思います。
私も映画で、いや映像作品で一番抵抗を感じるのはセリフで画を説明してしまうことです。これは非常に許されざる行為です。画でみせるが基本だと思います。そして、ストーリーを展開する上での自然な、そして最小限で効果的なセリフが全てだと私は感じます。
ただ、現実的にハコでも家でのDVDでも実際には「目」と「耳」だけですよね。つまりその場所の雰囲気、それが匂いであったり、他の五感そしてあとは想像力なんだとおもいます。
ただ、私は最低限のことに集中してほしい。以前、見る側の鑑賞力的なことで議論したこともありましたが、私はあいかわらず、何かを感じた、そしてただ面白かったでもいいとおもってます。つまり、誰が鑑賞しても。
2008年03月16日 01:18
ただ、それはあくまで、最低限集中して鑑賞した上でのことであったほしい。映画とは誰がみてもいいものです。そして気軽に鑑賞してほしい、ただ、ここが矛盾する点かもしれませんが、鑑賞するからには食べながらや、何かしながらはやめてほしい。画に、最大限集中してほしい。これはハコでも家でも一緒です。一度再生ボタンを押したら戻さず、止めず、席をはなれず・・・・。
最低限、「目」と「耳」で映像を感じてほしいい。そしてその上で何かを感じてほしい。されには用心棒さんがおっしゃる通り、集中死、映像にはいりこむとこで、その画からさらなる想像が、他の五感にふれるものが得られれば非常によいのではと思います。
では。
2008年03月16日 01:21
あのう、誤字が多くてすみませんでした。

最後の一文、

>さらには用心棒さんがおっしゃる通り、集中し、映像にはいりこむとこで、その画からさらなる想像が、他の五感にふれるものが得られれば非常によいのではと思います。
では。

です。失礼しました。
2008年03月17日 01:56
 こんばんは!おひさしぶりです。映画への愛情溢れるコメントを感謝いたします。
 理想的なのはその映画を観た、誰もが楽しめて、しかも映像的にも示唆に富んだ、優れた作品でしょう。
 二つの感性を司る「目」と「耳」に集中するのも一手であり、それでも摑まえきれない映像の意味を理解する手助けになるのが残り三つの感覚、そして経験と知性だと思っています。
トム(Tom5k)
2008年07月19日 17:11
用心棒さん、こんにちは。
わたしの敬愛する岩崎昶氏の書籍から学んだことなのですが、
フランスの文化人類学者でヌーヴェル・ヴァーグの左岸派の貢献者エドガール・モランや、わたしの敬愛するジャン・ポール・サルトルの言説を例にして、映像はイマジネーションが具体的で直接的なので、観る側が受け入れることが容易である体験となるとし、つまり映像文化は基本的に観る側の感性の認識によるものだということです。
そして、トリュフォーの『華氏451』からの警告などから、ムード、フィーリングという現代的感性の危険性も映像文化と結びつけることも必要かと・・・。
映画がフレームの枠を超えて人間の感覚すべてに訴えかけてくる共感覚の方向を辿るとき、ますます、その警告は迫真で、逆に展望も最大です。
いずれにしても、現代の大衆文化である映画には人類が生存することに必要な意識的、知性的な良い意味での最大の共感覚を創り出して生きたいものです。
それに必要なことは、現行の映画においては「眼で聴く、耳で観る」ことかもしれません。
それには、キューブリックやゴダールが一番かも・・・?
では、また。
2008年07月20日 22:46
 こんばんは!
 映像は多大な影響を与えやすく、それは観る者にとって、良くも悪くも変化する両刃の剣でもあります。
 その分かりやすさ、そして、その危険性を認識しながら観るのが映像の基本であり、主体として観るのか、それとも映像に意識を誘導されて観られてしまうのか。
 TVを視て、すべてを鵜呑みにする傾向の強い人は映像に見られていますね。批判する心を失くしてしまっていると言えます。ワイドショーとか見ている人はコントロールしやすい人種でしょうね。
 ではまた!

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