『映画の何を観るべきか?』ストーリーを追うだけならば、小説を読んではどうでしょう?

 「映画」とはそもそもなんなのでしょう?それを「芸術」と呼ぶ方がいます。とりわけフランス、イタリア、ロシア、ドイツなどのヨーロッパ映画を構築してきた巨匠と俳優達への思い出を大切にしている方は映画に対してはこうした考えを強く持っているのではないだろうか。

 また娯楽であると言い切る方も多く存在するのも確かです。こうした娯楽としての映画として典型的なのは製作と宣伝に莫大な費用を惜しげもなく投入するハリウッド映画でしょう。映画そのものが投資の対象であります。

 しかしながら全世界的な興行と宣伝、公開後のDVD化やTVでの放映権、キャラクターグッズなどの再利用こそを内容そのものよりも重視するという行き過ぎでアコギなやり方が幅を利かせている。それを当然のこととして忠実に実行しているハリウッド映画業界にたいしては、ヨーロッパや批評家の間にはそのような動きを危惧する者も少なくはないでしょう。

 ひるがえって、盛況といわれているわが国の映画を取り巻く状況は本当に活気付いているのでしょうか。『ALWAYS 三丁目の夕日』『パッチギ!』『フラガール』など近年では優れた作品も多く存在します。

 しかし全体を通して見ていくと、プチ・ハリウッドともいえる宣伝を展開する広告代理店やTV局、主演しているアイドル俳優を持て囃す茶坊主のようなコメンテーターなどが盛り上がっているだけ、出演者たちのゴシップが話題になっているだけ、漫画の再利用をしているだけの中身を観てみるとがっかりさせられる作品の方が圧倒的に多いと言わざるを得ない。

 では一体何を持って、映画と呼ぶのでしょうか?映画館に足を運んで観るのが本来の形ではありますが、老人や体の不自由な方、そして時間のないサラリーマンや主婦にとっては地上波放送、DVD、WOWOW、スカパーが主体になっているというのも現実であります。TVなどで受信したものとレンタルしてきたソフトもまた「映画」である。

 暗い館内で映写されて、見ず知らずの人々に囲まれて、緊張しながら、そしてある種の開放感を味わいながら観る映画館独特の楽しみを残念ながら奪われてしまった方(地方転勤や映画館の廃業)、または忘れてしまった方にも現在の技術革新は恩恵を与えてくれている。

 20年前、レンタルビデオ屋があちこちに出来始めた頃の衝撃、NHK-BSやWOWOWがノーカットで字幕つきで放送しだした頃の衝撃は若い映画ファンには理解できないでしょう。名作ばかりをお手軽に楽しめる500円DVDまで飛び出している状況は異常と言ってもよいのではないでしょうか。

 でも一体「映画」ってなんだろう?と考える人は何人いるのだろうか?映写されずに受像されているものを受身で見るTV型映画ファンと映画館で「ライブ」で観た映画ファンは同じであろうか。絶対違うのではないか。

 映画館で観た映画は思い出となり、なかなか忘れるものではない。親に連れられ観に行ったり、友だちと観に行ったり、デートで行ったり、子供を連れて行ったり、妻や夫と観に行ったり、一人で観に行ったりと行く相手はそれぞれ違うものの映画館には必ず人との交流が存在する。隣の席に誰かが座るだけでもそれは交流なのです。他の観客の反応を観る楽しみもまた映画館にいってきた方のみが味わえる特権です。

 映画?たんなるデートのためのツールに過ぎないという方もいるでしょう。とりあえず彼女なり、彼を二時間拘束できるというのも映画の強みです。そう、映画は後戻りできない、そして終わるまでは基本的に時間を拘束できる強みを持っているのです。

 映画館で観る映画が他の見方と決定的に違う点はこの後戻りできないという点なのです。この点において映画館で観る映画には大きな責任があるといえます。つまり観客の二時間を無駄にしてはならないということです。

 二時間を掛けて、制作者は観客を作品に引き込まねばならない、そして飽きさせてはならないのです。これが出来なかった作品には脚本、演技、演出、編集のいずれかに問題があるといえます。

 では家で見る場合はどうであろうか。厳密に言わせていただくと、自宅でDVDを見ながら一時停止や早送りをした段階で、映画はその価値を大幅に失うのではないでしょうか。感情の起伏を二時間掛けて意図的に導いていく映画において、一時停止は「死」を意味するのではないだろうか。

 家事や子育てもありましょうし、飛ばし飛ばし見たり、何日も掛けて少しずつ一本を見るというのも有りとは思いますが、厳しく言うと、それは既に映画ではなく、TVドラマに過ぎない。作品本来の拘束時間の中で、それを見た者が何を感じるか。家で見る場合のもっとも大切なルールの第一でしょう。

 もちろん家で見る利点もあります。見終わった後に見たい場面に戻れるという芸当は劇場では出来ません。それをしたかったら、再度見るか、入れ替え時のどさくさに紛れて、こそっと入り込むしかない。新作記事を書く場合にはこの点が一番難しい点です。

 では実際に映画の何を観るか?一番奥の深い問題です。人々の興味は千差万別です。同じ映画を観たとしても、その時々の感情や精神状態でフィルムから伝わってくるものはまるで違ってきます。これは感情を開放してくれる映画の良さでもあり、反面で感情ばかりに囚われてしまい、冷静な見方がまるで出来なくなってしまう厄介な問題でもあります。

 感情に身を任せているだけで心地良い映画は多く存在します。何度も観る映画にはそういう要素が強い。たとえ名作と呼ばれる作品ではなくとも、映画ファン一人一人にとって、とても大切な作品というのは存在するのではないでしょうか。心の琴線に触れる作品を多く持つことは映画ファンの喜びのひとつでしょう。では何故心に触れたのか。

 そのときに必要となってくるのが観るためのモノサシでしょう。個人的には映画を観るために必要な諸要素としては脚本、演技、演出の「ジャンケンポン・トリオ」がもっとも重要だと考えております。これら三つは映画の「血」であり、「骨」であり、「内臓」なのです。

 これらがしっかりしていてこそ、はじめて映画はその基本を整えることが出来ます。これらがあってこそ、次に音楽、舞台装置(衣装や小道具も含む)を見ていくことができる。そのあとにはじめてその映画が面白かったのかが理解できる。

 何が面白かったのでしょうか。監督が表現したかったであろうテーマなのか、流れるような編集だったのか(編集によりかなり感じ方に差が出てくるのはエイゼンシュテイン監督作品を観れば明らかである)、ただストーリーのみだったのか、俳優の演技だったのか、衣装の素晴らしさだったのか、いろいろと出てくるのではないでしょうか。そのひとつひとつの感じたことを大切にしていって欲しいものです。必ず映画ファンとしての幅が広がってくるはずです。

 そして映画ファンから、筋金入りの映画マニアを目指すならば、「面白い」の理由をしっかりと考えて欲しい。「面白い」は初心者だけに許された免罪符であると理解すべきではないでしょうか。どの映画の感想を聞かれても、「面白かった」「つまらなかった」では大人の会話にはなりません。

 映画に限らず、何事に対しても適当にしか接しない人には適当な喜びと適当な苦しみしかないように思えます。せっかく生まれてきて、映画を好きになったのでしたら、徹底的に愉しみたいものです。楽しむための一助となれば幸いです。

 最後にひとこと。映画を観るときにもっとも必要なものは映画への愛情ではないでしょうか。厳しい表現をすることの多い自分ではありますが、基本的にはなんとかして一つ一つの映画から良い点を見つけていきたいと思っています。

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この記事へのコメント

トム(Tom5k)
2007年06月24日 22:54
用心棒さん
この記事、何とかわたしのブログにTBしていただけないでしょうか?TBの調子が悪ければ、コメント欄にアドレスを貼っていただきたいです。

>映画館で観た映画は思い出となり、なかなか忘れるものではない。
わたしも幼い頃、母や祖母や従姉と行った怪獣映画、中・高校生のときに友人や彼女(当時の)と行ったアラン・ドロンやスピルバーグの映画、大学生の頃に行ったゴダールやヴィスコンティ。ずっと見続けた寅さん。
親父といったパニック映画や「猿の惑星」・・・。しっかりとメモリーに刻まれています。
ここ十数年、観ているDVDやビデオ、確かにそこに何が残るのか?おっしゃるとおりですよね。
>心の琴線に触れる作品を多く持つことは映画ファンの喜びのひとつでしょう。
トム(Tom5k)
2007年06月24日 22:57
(続き)
とのことですが、
オカピーさんは、『二十四の瞳』の鑑賞で、理由のわからない涙がこぼれたとおっしゃっていました。
 ↓
http://okapi.at.webry.info/200706/article_10.html
わたしはこれこそが本ものの映画鑑賞であるように思うのです。本当の感動は鑑賞する者本人にとっても無自覚で唐突におそってくる感受性への働きかけ、初めはそれが何なのか自分でもわからない。優れた映画作品には、そういったエネルギーが充満しているように思います。
では、また。
2007年06月25日 00:32
 トムさん、こんばんは。
>理由のわからない涙がこぼれたとおっしゃっていました
 それはおそらくオカピーさんの心を激しく揺さぶったからではないでしょうか。
 他人にとっては何気ない場面でも、「見る人、見る時、見る環境」が整ったならば、激情が走る瞬間が確かにあります。
 観客にとっても、映画作家にもそれはあるのではないでしょうか。内田吐夢監督のそれは『飢餓海峡』で時折みられるハレーションのような映像でした。
 激情を劇場で味わいたい!おそまつ。
オカピー
2007年06月25日 01:58
用心棒さん、こんばんは。

私も用心棒さんが仰っていることを、特にコメントの中で五月蝿いほどに語っているのですが、私のところに寄って下さる方は基本的にそれらのことが解っている方ばかり。ジレンマです(笑)。

(1)ストーリーを追うだけなら小説を読め。
その通り。もし出来るなら映画の脚本でも良いですね。映像化されたものを観る必要はないです。

(2)「面白い」理由を考えろ。
その通り。
折角金を払い、時間を費やして観るならそれを考えることでお釣が来ます。
私の場合は、これに
「つまらない」理由を考えろ・・・を加えたいと思います。
つまらない映画は反面教師であり、これを一生懸命追及すると、映画の見方がより深くなります。そしてつまらない映画を観ても「金を返せ」などという必要もなくなります。

(続きます)
オカピー
2007年06月25日 02:01
(3)映画への愛情が必要
その通り。
私は駄作という表現も使いますが、そこに愛情さえあれば使っても良い表現だと思っています。そう言えば、【駄作】の一言で大騒ぎした「ローラーボール」あんちゃんがいましたっけ。彼は私があの映画を愛していないと思ったのでしょうか? いえいえ、映画の可能性を追求して評価した結果が駄作というだけなのです。勿論かく言う私にも精神的に許せない映画が幾つかあります。それはあっても良い。

あらゆる点で人間を描いていない作品、若しくは観客を馬鹿にしている作品。
本日観た「アンダーワールド:エボリューション」が上の例で、「アイランド」が下の例。しかし、多くの観客がそう感じず、気付かない。
用心棒さんの仰るように、映画の面白さの理由を追求していないからです。
2007年06月26日 00:12
こんばんは。
記事、大変興味深く読ませていただきました。
私は最近は家でのDVD派ですが、一時停止は「死」を意味する。全く同感です。
私は、DVDを、映画を見る時は基本はかならず、集中し、画面から一切はなれません。宅配便がこようが、トイレへいきたくなろうが、絶対に止めませんし、席をたちません。当然、小屋でみるのとは全く違いますが、一度再生したら止めるべきではないと思います。セリフを聞きのがした、意味が分からないと言って、巻き戻すなど論外だと思います。何かしながら見る、こいうことがあるとTVドラマの脚本家のような、全部を説明してしまうセリフを生む許されざる自体を生むと思います。
2007年06月26日 00:16
ただ、生意気を言わせていただくと、まあ、私がバカで難しいことを考えられないからなんですが、私は面白かったでいいと思います。もちろん、製作者の、監督に意図をくむことができれば、深く感じることは幅が広がると思います。そうできることが一番いいのです。が、それは出来る人が、なんていうんでしょう、そこまで感じれる人がすればよいことで、鑑賞した全員がそうする必要はないと思います。単純に楽しむことが出来なくなるからです。子供の会話でのいいのでは・・・。言葉にできずとも、何がいいとはハッキリ表現できずとも、鑑賞して何かを感じればそれで最低限いいのではないでしょうか。
2007年06月26日 00:17
アングル、カット割り、照明、編集など当然、映像作品ですから、思うところはあるはずです。しかし、基本はストーリーを、セリフを追ってしまうものです。画がよくても本が悪ければ、作品はいいとはいえないのではないでしょうか。たとえば市川監督の「八つ墓村」のように。画は市川監督の画、カット割りも若干甘いものの、いわいる市川映像で素晴らしい、しかし、本は・・・・。小説を読めばいいと言ってしまうのは私は非常に抵抗を感じます。小説をどう映像化するか、どう話を展開させていくかが、見たいのです。本が、そして、ひとつでもいいセリフがあれば最低、私はそれはそれでいいのでは。
2007年06月26日 00:18
これはオカピーさんの意見とも対立してしまうのですが、ストーリーが、展開を追うのが私は基本だと思います。言ってみれば通の見方ではないのでしょうが、映画とは誰がみてもいいのですから。そうあるべきものだと、映画を愛するもととして、あくまで素人的な見方しかできない人間のヒガミとしてお聞き下さい。当然、反論があるとおもいますが、私はどなたに何をいわれてもこの思いはかわりません。
どうか、お気をわるくしません様に。生意気なコメントでスミマセン。
また、お邪魔します。では。
2007年06月26日 00:51
 オカピーさん、お久しぶりです!コメントをありがとうございました。
 ますます鋭くなっている文章の切れ味と根底に流れる映画への愛情に嬉しくなりました。
 今悩んでいるのは一本一本の作品についての記事と映画という文化全体(マクロ、ミクロ問わず)へ言及していく記事の割合をどうするかです。
 トムさんやオカピーさんのような映画芸術の良心といえるサイトもありますが、なかなかめぐり合えません。
 ウェブリでも「映画文化」そのものを記事にするところは少数派なのではないでしょうか。
 「何が映画?」なのかを問いかけるような文章を書ければ幸いです。しかし誰でも理解できる文章にする必要がありますし、他の人の鑑賞姿勢についてとやかく言うつもりは毛頭ありません。
 あくまでもこういう見方をすると、それまでよりも視野の広い鑑賞姿勢を引き出せますよというスタイルで行こうと思います。ではまた。
 
2007年06月26日 01:04
 イエローストーンさん、こんばんは!
 熱いコメントをありがとうございました。
 お気に触ったのであれば、申し訳ありませんが、ストーリーを追うことを全否定しているのではないんです。ストーリーの良さが他の拙さを十二分にカバーしているものも数多いのも事実です。
 ただストーリーだけに目が行ってしまい、他の要素に全く気付かないのは勿体無いですよという意味なんです。
 イエローストーンさんの映画への愛情がとても熱く純粋であること、自分自身の鑑賞姿勢をしっかりと持っておられることは文章を読めばすぐに分かります。
 だからこそ意見が違っても全く問題ないのです。むしろ違って当然だと思います。いろいろな意見があっても、映画ファン同士の連帯が崩れるわけではありません。
 映画が好きだというのはオカピーさんも、イエローストーンさんも、トムさんも、そして僕も同じなのです。表現方法や感じ方が違っても映画ファンであることは文章を読めばすぐに分かります。あくまでも映画鑑賞姿勢の参考になれば幸いですというのが根本です。
 ではまた。
2007年06月26日 03:39
イエローストーンさんのご指摘については私も答えねばいけないでしょう。

ストーリーについて言えば、用心棒さんの仰ることでほぼカバーできるでしょう。
 私は実はストーリー派です。映像はストーリーをサポートするものだと思っています。従って、厳密に言えばバランス派です。
 映像マニアから評価の高いジョン・カサヴェテスは映像的には極北とも言えるかもしれませんが、私が「グロリア」を除いて常に6点か7点に留めるのはストーリー性が弱いからです。弱いというより長廻しの映像が邪魔をするのです。

用心棒さんと相前後してブログを始めたのは半ば同じ思いからと理解しております。
 つまり「良い映画を作るのは良い映画観客だ」という信念です。これはプルーストが演劇について言ったことと全く同じです。
 何故その必要があるのかと申せば、良い映画が観たいからにほかなりません。
 正直に申しましょう。今のまま映画界が進むなら私は10年後には新作映画は観なくなっているでしょう。それほど用心棒さんも私も映画を巡る環境を悲観しております。
 この点だけは是非解って戴きたいものです。必死なんですよ。
2007年06月27日 22:52
オカピーさん、こんばんは。
>厳密に言えばバランス派です。
 まさにその通りですね。見事に映画の本質を喝破されています。映像とストーリー、どちらに偏ってもダメですし、両輪が最良の方向を目指さなければ消耗品を増やすだけです。
 『ジュラシック・パーク』で観客を驚かせたCG以降、分かり易い新たな進化は起こっていません。模倣の中から新たなる芽が出てくるのでしょうが、いまだ見えてきません。
 新しいムーヴメントが興るとすれば、それはアフリカでしょうか。サッカーでも1990年代初頭にはカメルーンやナイジェリアがヨーロッパや南米とは全く違うスタイルで戦い、われわれサッカー・ファンを唸らせました。
 純粋で独自の文化を持つ彼等の中から、独自の色彩感覚と映像感覚、そして経験したことのない音感とリズム(カットを含む)を持つ革新的な映画人が生まれてくるのを望みます。
 それまでは映画とは何であるか、どう観れば客観性を持つ審美眼を養えるのか、「面白い」を自分の言葉に置き換える手助けとなれば幸いに思います。ではまた。
トム(Tom5k)
2007年06月27日 23:52
わたしは「観せられること」と「観ること」の両面のあることが映画、すなわち映像文化の特徴だと思います。
そして、あえて「観る」ことにこだわったとき、すなわち創る側と観る側が正面から対峙することで、最も良い映画鑑賞ができるように思います。
映画技術にこだわったり、ストーリーにこだわったり、プロットにこだわったりすることが最も良いことかもしれません。
単に「観せられる」のではなく、何をもって観せようとしているかを主体的に判断(これも「観る」ということだと思います)することができるからです。
観る側からすれば、「鑑賞」は創り手との闘いかもしれません。
モンタージュやカット割り等の映像技術に無関心で、無意識に受け身になれば、「映像文化」に危険な扇動をされてしまう可能性もあるのかもしれません。
もちろん感動すること、させられることも価値のあることで、その働きも映像文化の素晴らしさでありパワーであると思います。
トム(Tom5k)
2007年06月27日 23:53
(続き)
ですから更に、その感動が何であったのか(もしくは、その不快感が何であったのか)「観せられた」ときに、今一歩考えてみることも、豊かで文化的な生活の一部になる端緒となるかもしれません。
横レスすみませんでした。
2007年06月28日 00:45
 トムさん、こんばんは。コメントをありがとうございました。
 映像とストーリーを融合させる編集が感情とマインドを誘導するのは感動したり、怒りを覚えたりすることでも明らかです。
 映像作品を観た時に起こる様々な感情やマインドの動きを注意深く内省していくと、それが偶然に製作されたものではないことに気付かされ、愕然となるところから始めなければ、批評眼は育ちません。
 ドキュメント作品を含め、意志の介入していない作品は皆無であり、映像すべてがある個人の意志を表現したものであるということを理解しなければ、一歩も前に出られません。
 大量に垂れ流される映像の嵐に毎日のように接しているとすべてが真実ではないという当たり前のことにすら、気付かなくなってきます。
2007年06月28日 00:59
(続きです)
では映画が何を観客に見せようとしているのか?おっしゃるように映像技術の切れ味、プロットやストーリーの独創性で勝負する者もいるでしょう。
 映画作家一人一人の映画へのこだわりを汲み取れるような鑑賞眼をどう養うかは映画ファンの火急の大事ではないでしょうか。
 またハリウッド・メジャーによる商売最優先の映画製作へ断固として「NO!」を突きつけられる熟成した映画文化をどう育成していくのかなどは映画ファンの草の根運動でしか育たないのは歯がゆい限りです。
 とはいっても現状の流れではシネコンというスタイルが定着しつつあるメガヒット優先のメジャー体勢では、他国の映画は蟷螂の斧でしかない。
 それを覆す可能性があるのがアフリカかもしれません。ではまた。
2007年06月28日 18:19
 昨日はネット環境を大幅に変える都合で一日パソコンには触れず、本日やっと開通しました。最初モデムが全く動作せず焦りましたが、手動で調整した結果使えるようになりました。

 昨今の映画界に関する、こういう命題は如何でしょうか。
 良い映画は面白い。逆もまた真であるか?
 現状ではNOでしょう。何故なら面白い(かもしれない)が、第7芸術としての映画と言えない作品が出没し始めたからです。
 かつてはどんなにくだらなくても映画は映画でした。が、「アンダーワールド」シリーズは果たして映画と言えるのでしょうか。

26日に映画評というよりコラム的なニュアンスで続編について語ってみました。ご覧になっていなくても是非読んで戴きたいと思う次第であります。
2007年06月28日 22:36
 オカピーさん、こんばんは。早速伺いました。TBを入れましたので、よろしくお願いいたします。
 「アンダーワールド」を未見なのでなんともいえませんが、言わんとすることははっきりと理解できるつもりです。
 人間の喜怒哀楽を描くのが映画です。その描き方は作家それぞれであり、アップや引き、アングルや構図、音や環境、光と影、カット割りやフィルムのモンタージュ、台詞やストーリー、俳優の所作動作で表現されています。
 その表現の微妙な違いを探り楽しむのがマニア、はっきりと言葉にできないが好みは自覚していて「良い物は良い」とするのが愛好者、「面白かったら良いかなあ」となるのが映画ファン、とりあえず話題作だけ観ておこうというのが一般人ではないでしょうか。
 
 台詞ひとつとっても、どういう表情でそれが語られているかという要素に、前述のすべてが複雑に、そして密接に絡んで参ります。
2007年06月28日 22:45
(続きです)
 圧倒的に五感を刺激してくるのが映画の醍醐味であるわけですが、映画の根本的な存在意義である「人を描く」という点が欠落している時点で、それは既に映画ではありません。
 どれだけ映像に凝っていても、「人を描く」という背骨を持たないものは映画足りえない。概して人を描けていないものほど感情移入できない退屈なものであるように思います。
 そもそも何故映画を観て、感情移入できるかといえば、それは人間を描いているからに他ならないわけで、わざわざ登場キャラクターすべてを怪物にしてしまう必要性すらありませんね。怪物が大挙出てくる『スター・ウォーズ』にしろ、基本は人間たちの愛憎の葛藤を描いているからこそ、あれだけの人気を保っているのですから。
 ではまた。
トム(Tom5k)
2007年06月29日 02:17
20世紀以降は人間の視覚がそれ以前と異なり、記憶も感性も視覚中心の段階に入ったわけですから、人間の基本的な欲求として美しさを欲し、美しさを提供するだけで映画は成り立つはずです。
何故、人間は美しいものを追求できなくなっているのでしょうか?そこが問題だと思います。コンビニ弁当がおいしいと感じてしまう味覚、ゲーム映像が美しいと感じてしまう視覚、デジタル音響が鮮明で素晴らしいと感じてしまう聴覚、そろそろ人間を観ても性欲を感じないバーチャル人間も当たり前に誕生しそうな勢いですよね。恐ろしいことです。
人類史始まって以来の人間の退廃に危機を感じます。
では、また。
2007年06月29日 20:20
 トムさん、こんばんは。
>人類史始まって以来の人間の退廃に危機を感じます。
 映画を語っていましたが、とうとうここまで来てしまいましたね。映画がどうとか、文化がどうとかいう問題を飛び越えて、人類そのものの未来という、次元の違う話になってしまうのは当然の帰結かもしれません。
 「来るべき世界」は足音を響かせ、地響きとともに迫り来ています。頭脳と感性でこの星の征服者となった人類ではありましたが、おおもとである五感と頭脳が衰えていく過程をまざまざと見せられる時代がやってきたのでしょう。
 映像や情報により、感情と知能をコントロールされてしまい、まったく自己判断の力を失っているのは恐怖としか言いようがない。
 そして映画は観客レベルの低下を最大限に利用し、さらにレベルの低い消耗品を量産していく。良い映画は作られても、顧みられない。
 刺激や扇情を伴わない映画はすべて「つまらない」「分からない」で片付けられてしまう。
 寒い時代になりました。
オカピー
2007年06月30日 03:40
TB返し致します。

私の記事でのコメントでも書きましたが、「面白ければ良い」という考えには必ずしも反対ではありません。
しかし、用心棒さんの言う愛好者以上の観客と映画ファン以下の観客では「面白い」の意味が違います。そこになかなか克服しがたい断絶があるのではないでしょうか。

一般人についてはとやかく言うまい。映画ファンなら少しは考え、愛好者なら表面的な理解に留まらず、やはり作品の狙いまで踏み込んでほしいですね。これが案外難しいのですが。
2007年07月01日 02:08
 オカピーさん、こんばんは。
 素晴らしい一本の映画(たとえば『ゴッド・ファーザー』)を何度も観る楽しみはいろいろなアプローチで作品を堪能出来る点にあるのではないでしょうか。
 演技とその撮り方、起承転結のリズムと時間配分、カットのリズムと構図の妙、光の当て方と影の作り方、俳優の台詞の言い回しと動きでの演技、感情を代弁する色使いと音楽、衣装の凝り方と色彩感覚などさまざまです。
 100人のマニアが観れば、100通りどころではない膨大な視点での鑑賞が可能です。このような鑑賞姿勢を持つ人が増えれば増えるほど、映画製作の現場でも緊張した雰囲気で撮影されるし、スタジオに篭ってからでもフィルムの編集を真剣にやらざるを得ない。
 良い映画の何が良いのか、残念な出来の映画はどこが良くないのかを突き詰めていけば、より良いものを見分ける審美眼が身に付いていくのではないでしょうか。

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