『イワン雷帝 第二部』(1946)スターリン体制に抵抗した革命的映画作家の最後の作品。

 かつての巨匠、エイゼンシュテイン監督の最後の作品となってしまったのが、この『イワン雷帝 第二部』です。『戦艦ポチョムキン』を発表して後は世界を代表する映画人になったエイゼンシュテイン監督も、晩年は再三に渡る制作中止とスターリン体制からの弾圧により、彼本来の創作嗜好とは明らかに異なっていたであろう時代物を撮ることに明け暮れざるをえなかったのは世界の映画芸術の進化にとっては大きなマイナス要因であったのではないだろうか。

 しかも、それすらも言論弾圧を強行に実践していた戦時下及び終戦後の冷戦構造を生み出していくスターリン体制下では必要以上に干渉され、この作品でさえ公開されたのはスターリン死後の、実に制作されてから10年以上も経った1958年になってからでした。もちろん製作者エイゼンシュテイン監督自身も既にこの世にありませんでした。

 イワン雷帝が親衛隊を重用しながら独裁制を断行し、邪魔な政敵を次々に破滅させたり、雷帝自身の疑心暗鬼な心理状態が拍車をかけて、かつての友人であっても容赦なく死に追いやっていくダークな様子がスターリンが実行している現実の政権運営に重なるために、エイゼンシュテイン監督は当局からも厳しい目を向けられていたようです。

 古今東西に関わらず、強大な国家体制を作り出した権力者が国内を統一したあとに向かう先はかつての大功ある部下達の粛清であることは避けられない政権長期安定への過程である。劉邦が漢帝国の皇帝となった後には彼を助けてきた韓信、鯨布らが粛清されました。

 わが国でも関が原の戦いで大功を示した福島正則や加藤清正らの大名たちを、国替え、代減封、参勤交代によって徐々に疲弊させて、最後に改易して家を滅ぼす政策が江戸幕府によって実践されました。

 ナチス・ドイツでも初期に大功のあった突撃隊のレームが粛清されました。スターリン体制においてもトロツキーの粛清などは有名でしょう。支配権を握った権力者の本質を鋭く指摘したこの作品を見て、喜ぶ権力者は一人もいまい。スターリンも当然気付いた事でしょう。

 芸術や文化も例外ではなく、エイゼンシュテイン監督もかつての威光はすでに地に墜ち、体制側からすると有名ではあったが、単なる危険人物のうちのひとりという程度の重要性しかない人物になっていったのかもしれません。つまり厄介者です。この『イワン雷帝 第二部』にしてもエイゼンシュテイン監督の生前に公開されることはなく、前述したように公開されたのは1958年になってからでした。

 第三部の制作予定もあったようですが、エイゼンシュテイン監督はその制作には入らずに、そのまま1947年に心臓発作で死を迎えました。悲嘆に暮れて亡くなったのか、厄介事に関わらずに済んでせいせいしていたのかは定かではありませんが、映画界にとっては偉大なる才能の損失であったと言えます。

 第二部の中でもっとも重要なのは後半のカラーパート部分であるといえます。前半部分はほぼ第一部で記述した技法をそのまま使用しているだけなので特記することもありません。それまでのモノクロの画面から突然カラーに変化するのですが、色彩にも強いこだわりを見せていました。つまり、カラーというよりは赤黒映画とでもいった趣のある芸術性を強く感じる作品になっていくのです。

 色彩を意図的に、そして観る者の感情を一定方向に誘導するために用いようとする彼の目論見を発見するのは容易ではあるが、ただその美しい真紅に染まったスクリーンを見つめるだけでも十分に楽しめる。

 驚かされるのはここで使用される赤の発色がとても美しいということです。滑らかで艶やかで綺麗としか言いようのないこの赤の美しさを1940年代のロシア映画は表現し得たのです。作品の背景に描かれるキリスト教世界の教会でよく見かける宗教絵画もとても良い色合いが出ています。建築物も宗教色が色濃く出ています。

 ロシアはもともとキリスト教国家なので、このような宗教的な儀式や建築物が作品に大きく関わってくるのも、この作品が宗教弾圧も行った革命ロシア体制によって陽の目を得ないような処遇を受けた理由の一つだったのかもしれません。

 何回かビデオで見たこの映画を今回初めて映画館の大スクリーンで観ましたが、細かいところまでフィルムに定着されていて、まさに驚異的な美しさを今でもわれわれに見せてくれました。ロシア映画界はハリウッドとはまた違う進化の道を歩もうとしていたのではないでしょうか。そのまま自由に伸び続けられなかったのは口惜しい。

 カラーパートはアメリカ映画お得意のミュージカル風の楽しい場面と非情な政敵粛清の場面で使われている。コザックダンスなどの民族舞踊を大胆に取り入れたこのシーンはこの映画の最大の見所である。弾圧や統制がなければ、もっと芸術的に自由で奥が深い映画を見ることも可能だったのではないかと思うと非常に残念です。

 抑圧の中から生まれる芸術も存在するのかもしれませんが、基本的には自由な表現が認められてこそ、芸術は新たなステップに進んでいくのではなかろうか。ロシア・フォルマリズム運動は構造主義のきっかけの一つだったのみならず、モンタージュ理論にも大きく影響を与えていたのではないだろうか。

 ではモンタージュ理論から進化して、映画界を先導した映画論はその後あったのだろうか。エイゼンシュテインの革新的思想の精神を受け継いだ映画人は果たしていたのであろうか。これから映画はどのような方向に進んでいくのであろうか。

 あの厳しい共産主義体制下にあって、鋭い視線とカメラの目を権力者スターリンに向けていった革命的芸術家としての壮絶な生き様を貫くことこそが、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督が彼の後に続くべき者たちに、己の身を持って示した映画芸術への愛情であり、最後の貢献だったのではないだろうか。

 「ペンは剣よりも強し」といわれるが、「カメラも剣よりも強し」である。もしあるのであれば、エイゼンシュテイン監督はオーソン・ウェルズ監督やチャップリン監督とともに映画の殿堂に入るべき人であろう。

総合評価 70点

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この記事へのコメント

トム(Tom5k)
2006年11月03日 20:28
用心棒さん、どうも。
エイゼンシュテインには、常に「挑戦」があると思います。彼の作品は正しいのか誤っているのかは、別として観る側をほうっておいてくれないとは、評論家の岩崎昶氏が論じています。映画が芸術である限りにおいては、彼の理論は、映画は常に葛藤であり、矛盾の中で躍動するものとした新しいモンタージュの創出であったと総括できるようです。
彼はプドトフキン、アレクサンドロフとともに
「トーキーに関する宣言」を公表していますが、画と音との関係を「トーキー形式のコントプラクト」の理論で方向付けたようです。すなわち音と映像にもモンタージュを応用して、高度で複雑な意味を瞬時に観る側に受け止めさせることを目指すべきではないかという理論です。
>映画の殿堂に入るべき人であろう
おっしゃるとおりだと思います。
では、また。
2006年11月06日 03:52
 トムさん、こんばんは。
 エイゼンシュテイン監督がトーキー作品である『アレクサンドル・ネフスキー』で見せたような戦いの真の臨場感と刹那的な激しさ、音楽と映像が同調しながらともにロマンチックに昇華していく幸福感を味わうことは現在の作品ではまったく無くなっています。
 ただCGで劇場の大画面を埋め尽くしても、それはスペクタクルにはならないのです。血と骨が通っていない最近の作品は現実味が皆無なのがとても気がかりです。
 時に何も考えずに書いていたのですが、映画の殿堂って、あるんでしょうかね?ハリウッドのみではなく、世界映画全体の記念堂というか映画博物館って、聞いたことがないですね。
 近くにあったら、暇さえあれば行きそうです。「ファムファタール月間」とか「特撮映画の歴史」として『月世界旅行』から始まって『ロストワールド』『キングコング』『シンドバッド 七回目の冒険』『2001年 宇宙の旅』『ジェラシックパーク』などを一挙公開とかしてくれたらとっても嬉しいですね。ではまた。 
トム(Tom5k)
2006年11月06日 23:47
転勤になったそうで、長時間の通勤たいへんですね。お身体に気を付けてください。

>残っていく作品には確実に他の作品とは異なる優れた個性が宿っていると実感した・・・
全く持って同感です。エイゼンシュテインは、人類の至宝なのでしょうね。
>ただCGで劇場の大画面を埋め尽くしても、それはスペクタクルにはならない・・・
これも、全く同感でございます。
エイゼンシュテインが現在、生きていれば「CGに関する宣言」など出して理論化していたでしょうね。黒澤やチャップリンならギリギリまで使用せず、抵抗していたでしょう。
>映画の殿堂
聞いた事がないですね。しかし、あっても不思議ではありません、いや、何故無いのか不思議なくらいだ!何故だ!(すみません。取り乱してしまいました。)
そういう意味では、本当に日本は後進国ですね。映画の業界にも、もっと企画力が欲しいですね。
では、また。
2006年11月07日 02:08
トムさん、こんばんは。
 結構思いつくままに書いてみると、色々な不思議な点が見えてきます。映画業界には今現在と一年後程度の未来しか考えていない連中がほとんどなのではないかと実感します。
 枠組みを作ることからはじめても良いのかもしれませんね。体が先で精神は後というのは情けない限りではありますが、今の現状のままではストーリーの奇抜さとCGに代表されるような見た目だけの娯楽に成り下がるのではないかと危惧しております。ではまた。

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