『折鶴お千』(1935) 溝口健二監督の、サイレント時代に撮られた数少ない、現存する作品のひとつ。

 サイレント映画時代の溝口健二監督の傑作のひとつであり、オープニングの大雨の中で駅に佇む二人(山田五十鈴さんと夏川大二郎さん)の男女のフラッシュバック・シーンのみで、彼らの生き様を過去と現在、そしてその後の未来についてサイレントなので当然ですが、ひとつの台詞もなく映像のみで見事に表現しています。

 かつての彼らにとって重要な神田明神を中心にして語り始めていき、最後にまたこの駅の待合に戻ってきます。素晴らしい構成であり、現在の映画手法が、特にその後も大して進歩していないことにも驚かされます。引きで撮られているワンシーン・ワンカットによる長回し撮影や美しい構図などに溝口監督の個性を感じます。

 長回しは、演技面では芝居の充実と緊張を生み出し、演出面でもカメラワークの自然さが要求されてくる、とても難しい撮影方法だと思います。その代わり上手く撮れると、短いカット割によって人工的に作られたものとはまったく違う引き締まった連続体の芝居が持つ生命力を感じ取ることが出来ます。

 ただ思うのは映像の途中で「言葉」が入るサイレントのスタイルは溝口作品の演出方法とは、本質的には相容れないものなのではないでしょうか。確かに、この作品はとても美しい作品ではありますが、途中でちょくちょく芝居に割って入ってくる「言葉」に対しては、邪魔なものでしかないと感じます。芝居が何よりも重視されている中で、長回しを使って画面の緊張を高めていく監督のスタイルに合致するのはトーキーしかありません。

 映画の要素の中で特に大切なものは演技、演出、そして脚本です。見た目をつかさどる演出はサイレントでもそう問題はありませんが、演技と脚本はかなりの制約を受けていたのではないでしょうか。ト書きがないと理解しにくく、映像で表現するにはどうしてもオーバー・アクションで演技をしないと分かりづらくなってしまうというのは、リアリズム的に自然に見せようという監督にとってはやりづらかったのではないかと思います。

 そういった制約の中でも大女優は見事な演技を見せてくれます。山田さんの艶やかな美しさ、ひたむきさ、思いやり、悲しさ、そして狂ってしまった後の妖艶な美しさは、音の入った台詞がなくても彼女の所作動作からはっきりと伝わってきます。彼女のむせ返るような女の匂いもまた嗅ぐことが出来ます。夏川さんに関しては、丁稚奉公している割にはあまりにも恰幅がよさ過ぎて、少々無理を感じました。

 またこの作品の中には後年の「雨月物語」「近松物語」「山椒大夫」でも見られた、打ちひしがれても、痛めつけられても何とか生きていこうとするたくましい女達と、彼女達にはまったくかなわない無能で無慈悲な男達が既に描かれています。この作品には溝口監督の作風の全てが出揃っている傑作であると確信しています。

 美しい映像、緊張感のある演技、甘くはない現実を直視させて目を背けることを拒む脚本、安っぽくない骨董趣味、墜ちていく女と何も出来ない男。これが溝口監督の映画なのだ。惜しむらくは戦争や映画会社の管理の劣悪さのため、貴重であるはずの溝口監督作品全90本のうち、現存するのは33本に過ぎず、サイレント時代の傑作の誉れ高い『唐人お吉』・『狂恋の女師匠』などが見れないことです。

総合評価 88点
アポロン活動大写真 折鶴お千

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