『ドイツ零年』(1948) 悲しすぎる少年の運命とネオレアリズモの代表作 ネタバレあり

 イタリアのネオレアリズモ(新写実主義)の巨匠、ロベルト・ロッセリーニ監督の1948年の作品であり、『無防備都市』に始まった戦争三部作の三作目の作品。ロッセリーニ監督は元々、ドキュメンタリー作品を製作するつもりだったようですが、途中から劇映画として作り直されました。一番弱いものから死んでいくという、弱肉強食の時代を見事に切り取っています。廃墟となってしまった第三帝国の首都、ベルリン。埃と絶望の渦巻くこの都で物語は進んでいきます。

 当時13歳だったという、エドムンド・メシュケ少年の演技が際立って素晴らしい。純粋な彼が、祖国の崩壊した現状の中で、たくましく生きようとして上手くいかず、誰にも相談できずに悩んで、自分なりの最終結論を出す過程を監督は甘ったるさのかけらも見せずに淡々と撮り続けています。エドムンド少年の演技はとても自然であり、見る者を彼の目線に同化させていきます。

 敗戦の後でも、たくましく生きようとする女と子供、いつまでも過去に執着している男達。意味も無いナチ思想を次世代に伝えようとする卑怯な残党達。ナチ思想に飼いならされた、かつての少年の教師は彼に取り入って「弱いものは死ぬべきだ。」というナチ思想を吹き込み、いざ少年が曲解して、病気で寝たきりだった父親殺しを犯すと「そんなことをしろといっていない。」と逃げを打つ。この作品で描かれる大人達はすべて卑怯で無能で無慈悲である。

 少年の純粋さ故に、更なる悲劇を招いてしまう、という、この作品のストーリー展開にはいたたまれなくなりました。しかし実話を元に構成されたこの作品からは、なんびとも目を逸らしてはならない、そういう決意がフィルムから伝わってきます。国家としての決着は付いたとしても、そこで暮らしていた普通の人々については、祖国も国際社会も何もしてはくれないという、厳しい現実を抉り出してきます。

 こうした厳しい現実を描き出すには、ネオレアリズモという新しい作風はうってつけのものでした。自然照明を用いて、人工的なそして作為的な演出を出来るだけ控えて、あたかも現実の生活を切り取ってきたかのような映像世界は、脚色が極度に抑えられています。当時の戦争で疲れ切ったヨーロッパの観客に映画を見せるには、あれしかないという方法だったのでしょう。

 嫌というほどに人生の、そして人間の陰惨な部分ばかりを10年以上見せつけられてきたドイツ・イタリア・フランスをはじめとするヨーロッパの人々には、戦勝国の中で唯一本土を攻撃された経験の無かったアメリカの、脳天気なハリウッド・スタイルの喜劇や恋愛物、そしてディズニーアニメでは感情移入などは到底無理であったでしょう。

 ハッピーエンドの多い幕切れには、違和感があり、納得がいかなかったのではないでしょうか。ヨーロッパの人々にとっては、普段は人に隠している気持ちや悩み、そして本音を発散させるには、気持ちを共有している欧州で製作された作品が必要でした。そして彼らの思いを代弁したのが、ロッセリーニ監督やデ・シーカ監督に代表されるネオレアリズモの映画でした。

 本音で語るネオレアリズモの作風はまさにこの頃のヨーロッパの志向にはうってつけでした。このムーヴメントは時代の要請だったのでしょう。作り物には無い迫力と生命力が、確かにこの作品、そして『無防備都市』、監督は違いますが『自転車泥棒』などには今も息づいています。後のヌーヴェル・ヴァーグの監督達も絶賛しているのが、ネオレアリズモの流れでした。

 確かに素晴らしい動きでした。しかし陰鬱で人生の暗部を見せつけ、全く飾らないありのままを見せていたこの動きは、戦後の復興とともに役目を終えて、ひとつのスタイルとして存在するのみになっています。笑えるようになったら、もう涙はいらない。一般の大衆がそう言っているように感じます。時代ごとに求められるものが変わってくるのです。それに気づいた者は作風を変えて生き残り、気づかなかった者は時代にも映画ファンにも捨てられてしまいます。

 写真としてみた場合、ネオレアリズモといっても全く美的センスに欠けるという意味ではなく、さりげなく、美しさを主張しすぎないように撮られているだけで、抑制された美しさはしっかりとフィルムに焼き付いています。主人公の感情とともに画調がざらついてきたり、暗くなったり、心の空虚を表す時にはハレーション気味になり画面が真っ白になります。

 決して雑ではなく、美しい映像は沢山あるのです。暗いとか、汚いとか言わずに、美しさをどう表現しているかを見極めて欲しい。撮影方法にも工夫が凝らされていて、小さな主人公を更に無力に見せるカメラアングルと俯瞰ショット、そして光と影の使い方にはさりげないが素晴らしい技術を見せてくれています。 

 とにかく目を背けずに見て欲しい作品です。戦争の後に残るものは何なのか。そして何が行われるのか。誰も救われないこの作品から何を学ぶかは人それぞれでしょうが、全く何も感じない人がいたならば、そういう人達が多くなったならば、また暗い時代が戻ってきた証拠かもしれません。

総合評価 83点ドイツ零年
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この記事へのコメント

2005年11月21日 14:57
 ロッセリーニはやはり戦争三部作に限るようです(その中でも「戦火のかなた」がベストと思います)。後に妻となるイングリッド・バーグマンを主演に起用した一連のドラマは平凡さは目も当てられません。フェリーニは生まれついての映画作家、デ・シーカは器用で何でも作れましたが、ロッセリーニはいかにも不器用で洒落た映画は無理でしたね。例えば、「ストロンボリ」ではイングリッドが他の素人出演者の中で浮いてしまって、演技するにも困っている様子が伺えました。
 用心棒さんのご意見は如何ですか?
用心棒
2005年11月21日 15:23
こんにちは。ロッセリーニ監督作品ですが、個人的にはこの作品を含め、オカピーさんと同じように初期作品が好きですね。他に評価が高い『イタリア紀行(旅行)』もありますが、あれはどうも違ってきていると感じました。
トム(Tom5k)
2008年06月08日 15:25
用心棒さん、こんにちは。おおっ!こんなところにオカピーさんのコメントが・・・。
おっしゃるとおり、ロッセリーニのこの三部作は、新しいリアリズムとして、50年以上経た現在でも輝きを失っていないように思います。未だ新しいですよ、ほんとに。
わたしはフランス映画においては、アラン・レネやゴダール、そしてルネ・クレマンに、その後継を見るのですが・・・。
わたしは、クレマンへの批判が現在においても払拭されておらず、フランス映画史への激しい消化不良を起こしてしまいます。
レネやゴダールとクレマンをわたしなりに総括していこうと準備中ですが、そこにはロッセリーニが必ず浮き上がってきて、エイゼンシュテインに辿っていかざるをえないような気がします。
今はさらに、それらを映画の娯楽性との止揚に至らせなければならない新たな模索も、わたしのなかに発生しています。
こりゃあ、次の更新までまたしばらくかかりそうですよ(笑)。
では、また。
2008年06月08日 20:38
 またまた、こんばんは!
 ロッセリーニ監督作品は三部作以外ははっきり言って、出来が良いとは思えないですね。  『殺人カメラ』『イタリア紀行』『ロゴパグ』での短編などは及第点ではありますが、三部作の印象が強烈なので、なにを観ても納得できないファンが多かったでしょうね。
 キャリアの最初に圧倒的な作品を発表し続けるも、後期はパンチドランカー的な映画しか作れなくなるのは悲しいことですが、多くの監督さんが罹る病気ですね。
 更新ゆっくりでいいんじゃないですか!僕も書きたいときには三日おきでも書きますし、別に書くことがまとまらなければ、一ヶ月でも空きますよ。自然が一番ですよ!
ではまた!
豆酢
2008年06月12日 23:02
以前書いた記事をTBさせていただきます。ロッセリーニ監督の作品の中では、これと「戦火のかなた」が印象深かったですね。
今作は、あまりにも救われない少年の痛みが厳しすぎ、同じような年頃の息子がいる私には、再見が困難な作品です。しかし、映画の持つ力と美には、“ネオ・レアリスモ”の枠組みを超えたものがあると思っています。
2008年06月13日 23:23
 こんばんは!
 ロッセリーニ監督の残した三作品は60年近く経ったいまでも偉大で、バーグマンと引っ付いた後の作品の酷さを補っています。

 フェリーニも、ヴィスコンティも、ネオレアリズモを使いこなし、不必要になると新たな作風に動いていきましたが、彼は上手く対応できずに、ハリウッドの過去の遺物(バーグマン・ファンには失礼ですが…。)に振り回されてしまった感があります。
 ではまた!

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  • 「ドイツ零年」

    Excerpt: “「ドイツ零年」を作るにあたっての私の意図は、私の全ての作品と同じでした。愛することの出来る心と、考えることの出来る頭脳を持った世界中の観客の為に、カメラが捉えたままの正確な真実を再現したかったのです.. Weblog: 豆酢館 racked: 2008-06-12 22:49