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zoom RSS 『白痴』(1951)無残に切り刻まれた4時間半の大作。オリジナル版は松竹倉庫に眠る?

<<   作成日時 : 2013/03/30 23:07   >>

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 携帯メールで文章を作ろうとして、普通にひらがなで“はくち”と入力しても、一回目にはこの映画のタイトルは変換候補に浮かんできませんでした。

 Wordの変換ではさすがに出てきますが、どうやらこの言葉も過剰な配慮のために規制対象になっているのか、それともあまり使われなくなっていて、すでに死語になりつつあるからなのかは定かではありませんが、一般的な言葉ではない模様です。英語タイトルでは「The Idiot」と出てきます。つまり“馬鹿”です。

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 原作はロシアの文豪ドストエフスキーによる重厚な作品で、文庫本でも分厚い上下全二巻に分かれています。これを二時間程度の映像作品に纏めるのはいくらなんでも不可能なので、黒澤明監督を以てしても4時間半近くもの超大作に仕上がりました。

 黒澤監督がもともと描いていた製作構想では、全体を一部と二部とに分けて、順次公開するという意図があったようです。しかしながら、ロシア文学をこよなく愛していた黒澤明監督は運良く『白痴』の企画を撮影するチャンスに恵まれたものの、この映画は松竹資本でしたので、東宝のように自由に写真が撮れる状況ではありません。

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 またドストエフスキーへの愛情に飲み込まれてしまったであろう黒澤監督は冷静さを欠き、感情の赴くままに作品への向かって行ってしまったように見える。物語に抑制が効いていないように見えるのだすが、この原因が黒澤監督自身の問題なのか、編集による悪影響なのかは分かりません。

 そうこうするうちに原作及び出来上がってきた試写の重さと暗さから判断したのか、松竹首脳部は分割公開を是とせず、また興行での観客の回転率を第一に考えた結果、黒澤監督入魂の一本だった『白痴』は二時間四十五分にまで上映時間を削られてしまう。

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 それにともない、本来持っていたであろう微妙なニュアンスはもちろん、物語の筋道、観客の感情をドラマチックにコントロールしていくはずだった映像モンタージュの構成などは消え失せてしまいました。

 なんだか訳が分からないフランケンシュタインの怪物のような継ぎ接ぎだらけのダイジェストに成り果て、観客の感情が高まってきたところでぶつ切りにされて、悪い意味でリセットされる最悪の状態での公開となった訳ですし、事情を知らない一般客からすれば、なんだか難解で楽しくないし、あちこちに飛んでしまい、他の人に「どんな映画だった?」と聞かれても何とも説明し難い作品になっています。

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 実際の興行も振るわず、黒澤監督作品としても消化不良の印象が強い。編集権を与えられず、あちこちにハサミを入れられ、その削られた部分を埋め合わせるのは字幕による静止画という有り様で、そもそもオープニングから字幕が押し寄せてくるのはあまりにも酷い。

 二部には出てきませんが、前半で観客を作品に引き込む肝となるべき開始早々の10分間に頻繁に字幕説明を入れるので、観る側の期待値は大幅に低くなってしまう。興行のために仕方なく切るにしてもあまりにも配慮を欠いた編集といわざるを得ません。

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 状況説明を台詞に頼る弊害が常々指摘されているテレビドラマよりもさらに酷い状態にまでレベルを下げられています。ここで松竹に対する怒りの言葉として有名になったのが黒澤監督が放った「そんなに切りたければ、フィルムを縦に切れ!」でした。

 無残な編集により、ムイシュキンである森雅之が純粋すぎるために世俗の世界に対応できずに気が狂っていく過程が解りづらくなり、彼の純粋さも見えにくく、ただただ気持ち悪い人物にも思えてしまいます。

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 原節子が隠していた心を見抜かれて、自身の心を取り戻していく感情の移り変わりも分かりにくい。文学の世界ではこういうムイシュキンのようなキャラクターは成り立ちますが、現実世界においては人生が破綻する。

 この世知辛い世の中では、悪気がないから許してやれとはならない。純粋というと聞こえは良いが、良いところはともかく、他人の悪い部分を深く考えずに指摘し続けるとその人の周りの人々は敬遠し、近づかなくなる。

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 シュトロハイムの『グリード』やウェルズの『偉大なるアンバーソン家の人々』も監督の意思などお構いなしでズタズタに切り刻まれましたが、我が国ではこの作品が芸術面での災難に遭いました。

 まあ、残っているだけまだましで、その前の世代の溝口健二監督の『狂恋の女師匠』や『人情紙風船』で知られる山中貞夫監督作品の多くの作品が芸術性を認められずに、ただのゴミとして廃棄されていました。

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 ただもし普通に完全版が一般公開されていたとしても、あまり馴染みのないロシア文学を観客が受け入れていたかどうかは疑わしく、かえって冗長で消化不良だったかもしれない。

 一連の騒ぎが『白痴』の価値を伝説に押し上げただけだったのかもしれません。松竹首脳部の経営判断が正しかったのかどうかは藪の中ではありますが、それを現在の映画ファンが確認する方法はない。

 遺恨を乗り越えて、首脳部と黒澤監督のどちらが正しかったのかを明らかにするためには松竹の倉庫に60年近く眠ったままになっているという完全版のリリースが待たれる。一部劇場では公開初期に完全版を上映したところもあったそうですので、フィルムは存在していたわけですし、まさか戦後の作品を廃棄しているとは思えない。

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 不完全な状態ではありますが、それでもこの作品には他の黒澤作品に引けをとらない圧倒的な迫力があります。その要因はまず第一に原節子、森雅之、久我美子、三船俊郎らの緊迫感に満ちた演技に拠るところが大きい。

 主役格の俳優たちの尋常ではない眼力は現在の俳優たちが持ち合わせていない、俳優としての覚悟と力量でしょうか。なかでも原節子は大根と呼ばれていたのが嘘のような熱演を見せてくれます。

 どっちがいいということではなく、演者として扱った黒澤監督とスターとして扱った小津監督のやり方の違いでしょうか。黒澤作品に登場するときの原節子は眼光が鋭く、凛としている印象が強い。

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 一方の小津監督作品では清楚で気高い大和撫子の印象が強い。良い悪いではなく好みの問題です。スター女優にたいして、演技が上手いとか下手だとごちゃごちゃ言うのはまったくのナンセンスで、お客さんを劇場に呼んで来れる魅力があるからこその看板女優であり、俳優なのです。

 脇役俳優が演技が下手なら、それは救いようがないが、彼らはあくまでもスターの周りを支える人々であり、スターなしではお客さんを呼べないので、結果として彼らの仕事も成り立たない。

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 持ちつ持たれつの関係をお互いに理解した上での演技なのではないか。ドラマを見ていて、出演者すべてが演技派と呼ばれる人々だけだったら、リアルすぎてかなり疲れてしまいます。

 またスターだけだと散漫で何を見たかさっぱり覚えていないこともあります。スターと演技派の配役のバランスが良いのが楽しい映画だと思います。話を原節子に戻します。彼女を囲んでの暖炉の前で、森雅之が彼女の本質を看破するシーンでは何とも言えない異様な存在感があります。

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 この世のものとは思えない迫力と緊張があのシーンにはあり、そういった雰囲気が魅力的な映画でもあります。室内劇ではどうしても平坦な場面になりがちで、変化を出しにくいところではありますが、構図が工夫されていて、俳優たちのワンカット内での動きが練られていてかなり変化に富んでいます。

 映像の美しさもずば抜けている作品です。札幌の街並みを切り取ったロケ映像はいかにも北海道らしい映像を見せるだけではなく、まるで没落していく貴族の物語を見ているような錯覚を味わえます。昭和20年代にこれだけの洋館での暮らしをしていたのは意外であるし、椅子の生活をしている場面が多いのはロシア文学が原作というのを少なからず意識していたのでしょうか。

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 エイゼンシュテイン的な同一図形や幾何学的模様を組み込んでいくことで得られる映像的な面白さはもちろん、人物配置を画面の前方、中間、そして後方に置くことにより奥行きを出すだけではなく、芝居中に人物配置やカメラ位置を動かすことで飽きさせないようにしています。

 人物を下手から斜めに三人並べ、上手に一人を置き、上手の人物を三人が違う角度から見下ろす様子をカメラが中央で捉える。モノクロ映画でよくある影による陰影作りだけではなく、冬の札幌ロケという特性を生かし、雪による影作りが秀逸で、多くの場面で吹雪によって登場人物の見えにくい感情を表現しています。

 雪とは好対照な炎の使い方もまた頻繁に用いられ、あるときは善意に目覚める証だったり、嫉妬であったり、憎悪であったりと炎の意味が場面毎にまったく違います。ラストシーン近くでの蝋燭の炎は森と三船の人生の炎が消えかけているようにも思えます。

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 自然に囲まれた地域ならではの雄大で厳しい雰囲気が素晴らしく、とりわけ原節子を求め、真夜中の雪祭り会場や真っ暗な道をさ迷う森雅之の映像は圧巻で、この映画の印象を決定付ける。このあとに続く三船による殺害未遂も強烈で、森の恐ろしいほどの叫び声は強く印象に残ります。

 真実は何も見えてこない、出口はまったく見えてこない、人生はまったく見通せないことを表しているかのように思えますし、地獄の底でもがいているようにも見える。美しい映像と過酷な人生物語との対位法的効果を楽しむと、より登場人物たちの悲惨な末路が心に沁みてくるかもしれません。

 興味深いカットに三段のガラス棚にナイフを並べていて、それを下から撮影しているものがあります。ガラスという反射してしまう対象の上に鋭利でかつ鈍く光るナイフを美しく撮るのは難しいと思うのですが、とても綺麗な光を放っています。

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 ただ何度見ても、凄まじい演技のぶつかり合いもどこかベクトルが違う方向に向いていて、力みすぎた肩透かしやぶつかっていっても相手がどこかへ逃げていってしまっているはたき込みの印象が強い。

 そもそもこの映画では主役は誰だったのだろうか。オープニングのスタッフロールには原節子・森雅之・三船敏郎・久我美子の名前が四名の連名で映し出される。原作での主役はムイシュキンでしょうが、この映画では久我美子と原節子だったのではないか。

 凝り固まった考えを持っていた二人が森との出会いで人生が変わっていく様子を描いているわけですから原と久我の物語という枠組みで捉えると映画が見えやすくなってくるのかもしれません。もっとも戦後すぐにあれだけはっきりと自分の意見を言える女性が一般的だったかと言うと疑問が残りますが、現在のほうがしっくりとするのかもしれない。

 物語の終盤で久我と原の直接対決が描かれる。久我は気が強いが人生経験は少ない若い女性であり、苦難を背負い続けてきた原との対決ではじっと久我の眼を見続ける原にたいして、久我は原の眼を直視できない。本音のやりとりを描くとき、カメラはカットバックで彼女らの言い争いを映し出す。情念がより強い原の迫力に押された久我と森は圧倒され、久我は逃げ出してしまう。このシーンでの原の眼力の凄みを見ないのはもったいない。

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 演出は黒澤監督らしさが多く出てきているものの独り相撲をしている感があります。今回見た印象も何を見せたかったのだろうというものでした。それでも映像美と演技の緊迫感は圧倒的なのは間違いない。

 もともとのオリジナル版は4時間26分で、一部の上映時間は93分、二部の上映時間は73分ですのでおそらく一部二部ともに60分以上がカットされてしまっている計算になります。松竹に残っていると噂される完全版のリリースが待たれますが、人気作品という訳ではありませんので難しいでしょう。

 それでもあれだけズタズタにされた状態でも高水準の映像美を保っているのですから、歴史的な価値だけではない新たな発見が出てくるのは間違いないのでぜひとも見たい。

総合評価 70点



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