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zoom RSS 『リズム21』(1921)かつてあった映画、その二。絶対映画とはどのようなものだったのか。

<<   作成日時 : 2008/04/06 00:17   >>

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 リュミエル兄弟の『シネマトグラフ』、ジョルジュ・メリエスの『月世界探検』、エドウィン・ポーターの『大列車強盗』以降、労働や家事で疲れきった庶民が一時の夢を見るため、そして明日また働くための活力とするためのささやかな娯楽の王様として、旅一座などの演劇を一気に抜き去り、新たに君臨し始めたのが映画でした。

 この本来は大衆の慰み物に過ぎない娯楽であった映画は、職人的な映画人のみならず、図らずもジャン・コクトー『詩人の血』、ブニュエルとサルバドーレ・ダリによる『アンダルシアの犬』、マルセル・デュシャン『アネミック・シネマ』をはじめ、多くの芸術家たちによって新しい芸術性が模索されていきました。

 そして第七芸術とまで呼ばれるようになった映画に注目し、各々が映画の方向性を探求していた1920年代においては、シュール・レアリズムやドイツ表現主義など映画史上でも重要な運動がヨーロッパ各国で芽吹いていました。

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 その中のひとつに虚無的で破壊的なダダイズムの影響を強く受けた、絶対映画と呼ばれた流れがあり、今回はその中でも『リズム21』『リズム23』『午後の幽霊』『レース・シンフォニー』を発表したハンス・リヒターについて書き連ねて行こうと思います。

 四角形や円形が縦横無尽に行き来するだけのこのフィルムを、サイレントで上映時間も5分足らずのこのフィルムを、生まれて以来、ずっとリアルな動画を見慣れている現代人に見せても、ただ退屈なだけでしょう。

 しかし何事にも起源があり、映画として、いきなり『スターウォーズ』や『風と共に去りぬ』が突然変異のように産まれたわけではありません。さまざまな試行錯誤を経て、はじめて傑作が生まれる土壌が作られるのです。

 リュミエル兄弟、ジョルジュ・メリエスらの名前は今でも語られるがドキュメンタリー(リアリズム)とフィクション劇だけが映画ではありません。純粋に図形が規則正しく運動するリズム・パターンだけでも広い意味では映画は作れるという可能性を追求したのがハンス・リヒターの流れでした。

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 図形が運動しているのを見ても、何が楽しいのだ、という声もあるでしょうが、現在のわれわれが観ている全ての映画は二次元でしかないことに気付くと、この作品が問いかけてくる意味に気付くでしょう。

 フィルムによって映し出される映画は二次元であり、図形と何ら変わりがないのです。経験と錯覚を利用した虚構なのです。フィルムで映写される全ては現実ではない。レコードと映画は大衆芸術の代表ではありますが、どちらも実体がありません。

 世界が規格化されて、機械化されていく過程で産まれた大量コピー文化の代表でもあるのです。一本の映画は基本的に世界中で同じ編集と音楽を付けて公開される。これは芸術の広がり方としてはとても凄いことです。

 絵画は本物は一枚しかありません。しかし映画のフィルムはコピーして、世界中の映画館で掛けられる。ゴダールがかつて「セザンヌの絵は二万人が見た。ヒッチコックの『見知らぬ乗客』のライターは数億人が知っている。」と述べている。

 他の芸術と映画の違いを端的に言い表している。その他の芸術、例えばデザイン(道具)や文学にも言えることですが、これらもコピーして、大量生産できるのは確かです。しかし意識して楽しんでいるとは言いがたい。まあ、ブランド物やファッションは楽しんでいると言えなくもないのでしょうが。

 なにはともあれ、一度に世界中の人々が同時に各地で楽しめるのは文学・映画・レコードでしょう。演劇は同じ作品を演じても、同じ役者が同じ時間に世界中で存在することは出来ない。ただ役者と演出家を替えるという利点があるので、解釈を加えながら、何世紀も生き続けている作品も数多い。

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 文学は理解するのに時間が掛かる。また書かれた当時の時代背景、風俗、宗教知識の有無が読む者の理解度に大きな差をつける。この点、ダイレクトに視覚を刺激する映画はまさに大衆のためにある。

 今、家で見ている『風と共に去りぬ』は第二次大戦前の映画ではありますが、ヴィヴィアン・リーは半世紀以上経っても、今なお美しい。当時の観客も、現在の観客も共に同じフィルムを観る。違いは観客たちがその時代ごとに置かれている環境や共通認識、価値観であろう。戦時下、そして男性至上社会下で観るスカーレット・オハラとふやけた現在の状況下で観る彼女は同じではない。

 本筋から大分と離れてしまいましたので、図形に戻ります。二つの図形が交わったり、離れていく様は劇映画における人物配置であり、カット割りである。映し出される対象に感情移入できるかどうかの違いでしかない。

 求め合うように交わる図形(ラブ・シーン)、反発し合う図形(アクションやホラー)、寄り添う図形(人間ドラマ)。そのまま人間に置き換えれば良いのです。さすがに『午後の幽霊』までくると、かなり具体性を持つ対象を描くようにはなってきますが、彼の基本は図形の配置の妙、言い換えれば構図という視点である。ただつまらないという前に学ぶべき点はある。

総合評価 62点

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
用心棒さん、こんばんは。
ふ〜む、実に興味深いですねえ。ドイツの表現主義、フランスのシュール・レアリスム・・・。
映画がまだリアリズムに行き着く前は、むしろこのような映画的なトリックなどで、シュール表現をしやすかったと何かで読んだ記憶があります。アンドレ・ブルトンが人間の深層心理を写実するのにシュール・レアリスムの体系を宣言し、マン・レイやハンス・リヒターが映画で実践した。
結局、映画史的にはブニュエルの素地が、このあたりにあるのでしょうね。『アンダルシアの犬』はセンセーショナルでしたが、わたしは『黄金時代』が未見でありますので、いつか観て見たいと思っています。
では、また。
トム(Tom5k)
2008/07/21 00:40
 トムさん、こんばんは!
 いまでこそ、映画といえば劇映画というのは当たり前になっていますが、それこそ当時は娯楽だけではなく芸術としても、あらゆる可能性が模索されていたわけで、さまざまな映画運動の歴史を知った上で、現在の映画を観ていけば、新しいというか考えたこともなかったアプローチとともに映画に対面することになるかもしれません。
 そういう楽しみを得るためにも映画運動について観ていくのも楽しいですよ。

 ではまた!
用心棒
2008/07/22 19:17

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