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zoom RSS 『ボディ・ダブル』(1984)ヒッチコキアンならば、やってみたいことをやってしまった男、デパルマ!

<<   作成日時 : 2006/12/10 02:35   >>

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 ブライアン・デバルマ監督が有名監督に登りつめていく頃の比較的初期の作品である。この作品でも既に後々のデバルマ監督が彼のフィルムで見せる傾向と嗜好が色濃く出ている。それらを探すのはこの映画においてかなり容易である。

 つまり、それはヒッチコック映画への抑え切れない愛情である。パロディではなく、真剣に彼はヒッチコックになろうとしている。この傾向は彼の良さであり、限界でもある。

 この作品がパロディに留まらず、異様な雰囲気を伴っている理由の第一には主演俳優の差が挙げられる。『めまい』『裏窓』ではジェームス・スチュアートという人気と好感度の高い大スターを、あえてくせのある人物(つまり変態)役で起用した。

 彼のルックスでは、いかに変質者的な行為を行っていても、何故か許せるのである。ところが、これを『ボディ・ダブル』で同じような行為に及んだ時に主人公クレイグ・ワッソンから受けとるのは気持ち悪さである。彼自身もジェームスとは違い、加害者として扱われ、耐え難い警察権力からの嫌疑と決め付けを受ける。

 ヒッチコック監督作品から得たエッセンス、つまり覗き(『裏窓』)、アダルトビデオ(『ディープ・スロート』)、閉所恐怖症(『めまい』のパロディ)、作品前半でのヒロインの殺害とシャワー・シーン(『サイコ』と『めまい』のプロットを掛け合わせた)、ストーカー行為(『見知らぬ乗客』)を一本に叩き込んでいるのは荒技としか言いようがない。

 またB級ホラー(オープニングに出てくる、いかにもクリストファー・リーの『ドラキュラ』を意識したハマー・フィルムやコーマン監督作品もどきには笑うしかない)、フェチシズムそして変質者的愛情表現をヒッチコックテイストと混ぜ合わせる。

 しかも凝っているのは配役にメラニー・グリフィスを起用している点である。ご存知の方もいるかとは思いますが、彼女は『鳥』『マーニー』のヒロイン役を務めた後期ヒッチ女優、ティッピ・ヘドレンの娘さんなのです。デパルマ監督のヒッチコック趣味への凝り様は尋常ではなく、薄気味悪いほどです。執着が強すぎるのではなかろうか。

 主人公の描きかたを見ていても、ただのストーカーチックな変態さんの映画にも見える。だがヒッチコキアンがこれを見れば、理解できる部分はある。『ボディ・ダブル』というタイトルそのものに偽装や二重の意味を持つものを探すヒントと楽しみを提供してくれるデパルマ監督への期待が高まる。

 ボディ・ダブルのもともとの意味は体の吹き替え俳優のことで、手や足、胸、おしり、後ろ姿などを危険なシーン、性的なシーンで、大物女優(俳優)を使えない状況において、このような体のパーツが似ている人物が代わりにそのシーンを演じることを指します。

 この作品で「二人」になるのは主人公(覗き屋であり、ヒーロー?であり、俳優であり、偽プロデューサー)、犯人(主人公の親友であり、彼を嵌める犯人でもある)、グリフィス(妻役であり、ポルノ女優でもある)など大勢いる。本当にごった煮のような人物設定です。

 さらに作品中にスムースに挿入されているヒッチ映画の有名シーンの数々を再現したこの作品は、ある意味ではヒッチ・ファンの夢を叶えた映画オタク、デパルマが到達した夢の世界、「趣味」の世界の映画である。衝動に任せて行くところまで突っ走ってしまった感がある。ファンとしてはご立派だが、そこまでやる必要があったかどうかは判らない。

 覗きから始まってエスカレートしていく主人公の行動は本能のままに動くオスを見事に描写している。高級デパートでのストーカー&下着泥棒騒ぎを捉えたカメラの視線はエロチックであり、かつどこか惨めで哀愁が漂う。

 ただ訳が分からないのはいきなり出てくる80年代のイギリスのバンド、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの『リラックス』のプロモ製作シーンもどきである。この歌はホモの歌であるが、何故脈絡もない彼らを突然出演させたのであろうか。お金絡みなのでしょうか。

 この『リラックス』はホモ・セックス描写を綴った歌詞の過激さから英国では放送禁止、第二弾の『トゥ・トライブス』も東西冷戦時の政治問題を茶化したPV(当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンのそっくりさんとソ連書記長チェルネンコのそっくりさんが泥レスのリングのなか、反則技の応酬で戦うという内容)などのため、これも放送禁止となにかと話題の絶えないバンドでした。ちなみにこのバンド名のなかの「フランキー」とはフランク・シナトラのことです。

 少々脱線しましたが、個人的には彼がいつヒッチコック・フェチから抜け出し、彼自身の新たな作風を確立するかに興味がある。360度パン、スプリット画面はなるほど彼らしい画面作りではある。だがそこから先の部分を提示してはいない。

 ブライアン・デパルマ監督はいったい何を語りたいのか、そして何を見せたいのか。ノワール、ヒッチコックにこだわり過ぎて、個性が埋没しているように思える。物事すべての二面性を見せていくのが、彼らしさなのだろうか。

 また彼のフィルムに登場してくる主人公は皆どこか病んでいる。監督自身の投影だろうか。病理が白日のもとに晒される時、彼が新たな人生を歩み出すチャンスにもなる。しかし大抵のフィルムでは彼が生まれ変わろうとする時には尋常ではない痛みを伴う。

 死と背中あわせの舞台においてのみ、彼の主人公は生存を許されるのだ。恥を晒けだす覚悟のない者は停滞するか、画面から消える運命にある。映画とは動画であり、停滞は死を意味する。

総合評価 65点
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