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zoom RSS 『ゲド戦記』(2006)宮崎吾朗初陣!宮崎王朝は世襲制で、息子に継承されたのか。ネタバレあり

<<   作成日時 : 2006/08/03 00:46   >>

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 ジブリ・ファンとしては『ハウルの動く城』以来の、待望の新作長編映画であるこの作品が、宮崎駿監督でも、高畑勲監督でもなく、宮崎監督の息子、宮崎吾朗に任されたという事実にまずは驚かされました。彼って、今まで何やっていたんだろう。昔からいた人じゃないのは明らかです。いたら、スタッフ・ロールを見ていて気づきます。

<思いっきり、ネタバレしていますので、観に行かれる方は注意してください。>

 まったく経験のない彼に、果たしてプレッシャーだけでなく、大きな予算と宣伝費のかかる、東宝のドル箱であるジブリ長編を任せられるのか。『アルプスの少女ハイジ』、『ルパン三世』のファースト・シリーズ、『未来少年コナン』以来の宮崎ファンとしては心配がありました。

 思い入れの強いジブリ作品は数多くあり、それらのイメージを壊されはしないか、また壊せないのであれば、なんのためにわざわざ彼を引っ張り出さねばならないのか、という相反する思いを持ちながら、大スクリーンに集中しました。

 技法として目立っていたのは、比較的ゆったりとしたカメラの上下の動きであるティルト(パン・ダウンとパン・アップ)からのクロース・アップという手法で、かなりの頻度で用いられていました。通常のパンの動きもあるのですが、前述の組み合わせが印象に残っています。

 ただそれが作為的というか、不必要にカメラを動かしているのが気になったという意味においてです。場面転換するのならば、普通にフェイド・イン・アウトかディゾルブで十分です。無駄な動きというか、無意味な移動は目障りですらある。

 縦回転という手法は大きなスクリーンが我々を待っている劇場で観る分には良いのですが、DVD化され、家庭で視聴する際には、意図していた効果が随分と薄れてしまうのではないかという心配もあります。

 また想像上の方向というか、観客が惑わないようにするために用いられるキャラクターの進む方向もしっかりと決められていて、街や館に向かう時には左から右へ、テナーの家や街中では右から左へと固定されていました。キャラクターが画面手前から遠くを見ると、画面奥の道で、探していた相手と巡り会う、というシーンもかなり多くありました。遠近感を用いて、画面の奥行きを広げています。

 映画の画面には、画面左右の幅、手前と奥行き、上と下、そしてもっと言えばオフ・スクリーンの部分もありますが、この作品で印象に残った空間は上下、そして手前と奥行きでした。あまりオフ・スクリーンのスペースは使用されていないので、これもDVD化された時にこじんまりとした狭い印象を持ってしまうかもしれません。

 クロース・アップに頼りすぎず、比較的引いたカメラ位置でキャラクターを捉える事で、全体を見せ、客観的に作品世界を見せる演出は冷静で好感が持てました。ただし編集は上手くいっていません。何かのダイジェスト版を観ている思いをぬぐいきれません。

 色使いで目立ったのが、いわゆるマジック・アワーの色彩でした。すべてが神々しく見える夕陽の効果をアニメーションでも使用しています。台詞ではなく、映像でかりそめの平和を享受するシーンで用いられる夕陽はその後に続く暗闇での苦闘とのギャップを際立たせています。
しかしそれは実写でこそ冴える手法であり、安易にアニメで使うのはどうかと思いました。

 色使いといえば、今回の作品でむしろ、キャラクターよりも印象に強く残るのが背景の美しさでした。印象派以前の中世ヨーロッパ絵画の作風を思い出させる背景の描写は素晴らしく、しばしば目の前で展開される人間達の芝居よりも目を惹きつけられてしまいました。

 本末転倒ですが、それほど美しい。しかもただ美しいだけではなく、どこか死の臭いや苦悩を嗅ぎ取る事のできる美しさでした。背景の前で行われている演技については、あまり印象に残っていません。

 キャラクター及び作風のタッチ自体はジブリ・ファンとしては馴染みあるものばかりだったので、安心したのも事実ですが、新鮮さを期待していた部分もあったので、がっかりした感情も同時にありました。すべてにおいて「安易」という言葉がキーワードになってくるのが、今回の『ゲド戦記』ではないでしょうか。

 『風の谷のナウシカ』、『魔女の宅急便』、『紅の豚』、『もののけ姫』、そして『千と千尋の神隠し』などをすぐに思い浮かべてしまうほどの「いつか観た感じ」というかデジャビューかと見紛うばかりに登場するキャラクターや設定には正直うんざりしました。ジブリワールドを継承しているのは嬉しいのですが、エピソードまでをたらい回しにするのは見ていられません。

 せっかくの宮崎吾朗監督の処女作であるにもかかわらず、周りの人々が彼の勝手にさせてやらなかったのではないか、という印象を持ちました。彼に良かれと思ってやっているのでしょうが、世襲制が裏目に出ていたのではないでしょうか。

 それか反対にあまりにもオリジナリティのない彼に代わって、アニメーターやスタッフが宮崎駿という核を失ったまま、「のようなもの」を作り上げてしまったのかのいずれかです。

 スタジオ・ジブリ・ギルドの職人芸を堪能できるのですが、新鮮な活力が見られないのです。不安を抱えながらも、活き活きとした処女作独特の活力がないのは宮崎監督にとってマイナスだったのではないでしょうか。落ち着いて観れる作品には仕上げられてはいます。ただ驚きが欲しかった。

 ストーリーとしては起承転結という要素の中で、起承転までは比較的冷静に構成されていました。言い換えると熱意を感じない。それも最後にテルー(手嶌葵)がドラゴンの化身になってしまったことで、全てが台無しになってしまいました。ゲド(菅原文太)が何かをほのめかすシーンが前半にあったので、ギミックがあるのは予感できましたが、あれは無意味であるように感じました。

 ドラゴンへの変化により、すべてのリアリティが崩壊してしまいました。薄幸のか弱い少女、テルーだからこそ、観客は感情を彼女に注ぎ込めるのです。それが強力なドラゴンに変化してしまえば、水泡と化してしまう。しかも主演級が龍に化けるというのはすでに『千と千尋の神隠し』で使われてしまっている。何故に処女作で、手垢の付いた演出を再び使わなければならなかったのか、疑問でいっぱいです。

 手垢といえば、暗黒面に落ちた主人公アラン(アナキン)を、愛する者テルー(パドメの星はナブー)と彼の師匠ゲド(オビワン)が救い出すという展開は、そのまんま『スター・ウォーズ』であったため、映画館で観ていて、『May the Force Be with You』と突っ込みたくなりました。ついでにクモは銀河皇帝パルパティンを連想させました。

 ファンタジーだからリアリティが必要ないというのは誤りです。ファンタジーだからこそ、しっかりとした設定がより強く求められるのです。リアリティとリアリズムは違う。そしてこの作品に求められるのはリアリティです。

 オープニングとクロージングで二度登場するドラゴン、オープニングとクライマックスで二度も親(小林薫)と親代わりの男(菅原文太)を刺す主人公アラン(V6の岡田准一)。最初のドラゴンは戦乱の象徴、最後のドラゴンは一時の平和の象徴か。

 主人公は肉体を分け与えてくれたの親を刺し殺した後、精神的な師匠とも言えるゲドをも手にかけようとする。肉体は滅びるが、精神は滅びない。宮崎監督の親へのメッセージであろうか。肉体は継承されないが、精神は継承される、というはずだったのですが、彼は駿監督の何を受け継いだのだろうか。

 唯一、吾朗監督がセンスの良さを発揮したのが主題歌での作詞でした。荻原朔太郎の詩からインスパイアされた、『テルーの唄』にはまるで言霊が宿っているようでした。シンプルで力強く歌われるこの歌、そしてアカペラでこれを歌いきった手嶌葵の生命力の強さが出た、この作品中でもっとも力溢れるシーンでした。しかしよく考えると言霊を吹き込んだのは荻原朔太郎なんです。

 普通作品中で、キャラクターなり俳優が主題歌を歌うシーンでは、出だしの部分だけアカペラで歌われるものの、すぐにミュージカル風に演奏が加わってきて、音楽が流れるだけになってしまうという演出が多いのですが、ここでは彼女は三番までをアカペラで歌いきりました。

 歌唱力が必要なのはもちろんですが、デビューしたての彼女に、これ程の信頼を与え、彼女の強さに賭けた吾朗監督の演出意図はこのシーンに限っては上手くはまりました。

 全体としてみた場合、不満は残るものの背景などは綺麗に仕上げられています。しかし、芸術家の子供も優れた芸術家になるかといえば、明らかに答えは「否。」です。過去作品を思わせる、いつか見たイメージの羅列にはげんなりします。ジブリDNAと取るか、ジブリ・ミックス100ジュースと取るか、ジブリ・サラダと取るかは人それぞれでしょう。

 はじめて見たジブリであれば、過去作の良いところ取りばかりなので、完成度の高い作品として印象に残るのでしょうが、20年選手も多いジブリ・ファンが観れば、納得のいかない作品ではないでしょうか。個人的にも納得がいかない一人です。

 最後のスタッフ・ロールに大挙して出てくる韓国人名の羅列は「きむじょんいる王朝」と宮崎王朝を同一視させるためのパロディなのでしょうか。それともただ単に日本人スタッフの腕が落ちたのでしょうか。

 外部発注に頼ったというのは無理にでも夏休みシーズンに間に合わせようとした商売サイドの策略でしょうが、駄作を作り続ければ、一作ごとに見捨てられていくのは明らかです。背景の美しさとその手前で演技するキャラクターが乖離しているような質感のなさを感じたのは僕だけではないはずだ。

 何故に想像力とクオリティの高さでアニメ世界をリードしてきたスタジオ・ジブリがよりによって世襲などという前時代的な手法をとったのか。宮崎アニメ王朝、スタジオ・ジブリ崩壊への序曲とならねば良いがと危惧を持った、真夏の暑い日でした。館内の子供たちは明らかにつまらなそうな感じで、落ち着きがなかったのも気に掛かりました。次回作に期待しています。
  
総合評価 60点

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
以前、『力道山』 で
TBいただいたと記憶しています。
格闘界もますます混迷を極めてますが、
橋本真也選手が他界した1年前が、
ずいぶん昔のことのように感じられます。
とりあえず、小橋にはホッとしました。

さて、この映画、右も左も
酷評に次ぐ酷評といった感じですが、
自分としては表面的じゃない部分で
何か胸に響くものがあり、鑑賞後は
どこか癒された気分に浸れました。

まるで違う畑にいた吾朗氏に
これを手掛けさせたという時点で、
日本映画に対するカンフル剤として
充分なジブリの挑戦だったと思います。
ジブリ映画が
ここまで酷評を集めたというだけでも、
歴史的とは果たして言い過ぎですが…。
栗本 東樹
2006/08/07 18:54
 栗本さん、お久しぶりでした。
>格闘界もますます混迷を極めてますが、
そうですよね。桜庭がプライドを去りましたし、地上波放送も打ち切られましたし、亀田選手がチャンプになったり、小橋の手術があったりと色々ありました。
 何かとあれこれ言われる亀田選手を好きかと言われれば「NO」ですが、最後まで撃ち合いにいった姿勢にはしびれました。
 格闘技では常に攻撃するという姿勢こそが最も大切であり、これに経験が加わって、調子の悪い時でも勝ちを拾っていくのが偉大な選手です。見た目の悪さと有効打の多さというのを冷静に分けるのは難しいですね。
 相手の嫌がること(あの試合ではボディブロー)をやり続けた彼は素晴らしいプロ選手であることは間違いない。
>日本映画に対するカンフル剤
できれば、もっとジブリの固定概念を一度破壊して、再度リセットして欲しかったですね。
ではまた。
 
 
用心棒
2006/08/08 00:54

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