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help リーダーに追加 RSS 『裁かるゝジャンヌ』(1927)ほぼ全編がクロース・アップのみで構成された、シネマ(劇映画)。

<<   作成日時 : 2006/04/17 01:16   >>

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 1927年に製作された、カール・ドライヤー監督の代表作のひとつが、この『裁かるゝジャンヌ』であり、ジャンヌダルク物では、後にこの作品を真っ向から否定する、ロベール・ブレッソン監督の『ジャンヌダルク裁判』と並んで、最高峰に位置する作品でもあります。

 移動撮影(ドリー)とクロース・アップを駆使して、特にクロース・アップをほぼ全編に使うことで、見事なまでにドラマチックに、この異端裁判を題材に採った劇映画を仕上げました。いまでも多用されている、クロース・アップを何種類も提示した意義は非常に大きい。

 ルイーズ・ルネ・ファルコネッティという無名の女優を用い、彼女の表情を、ただアップにするだけではなく、彼女の顔のどの部分をアップにするかで、そして顔の位置を画面の何処に置くかで、映像の持つ意味と印象が変わる事を、計算し尽くして映像を編集しているのを見逃してはならない。

 ファルコネッティや司教たちの顔の一部分(目、口、頬)あるいは顔全体を強調していく、超どアップ映像からは、そのシーンの中で、その瞬間に、何が観客にとって最も重要なのかを、映像で表現している。

 彼女の口がアップになる時に、もっとも必要なのは彼女の証言であり、彼女の目がアップになる時に最も重要なのは、彼女の感情であり、司教たちの言葉への反応である。大きな瞳から溢れる涙、引きつった口元からは恐怖と絶望が見てとれる。ときおり彼女の周りを回転するカメラは、周りの人間たち全てが敵になって彼女を責め立てる様子を表現する。

 いささか作為的過ぎるきらいはあるが、クロース・アップ、移動撮影、細かいカット割りを効果的に使い、編集していく事でドラマを盛り上げ、観客の視線を誘導し、感情をも支配する。ほとんどの映像がアップ映像であるために、少々威圧的な印象を受ける。

 しかし、1927年に、すでに映画の中での監督の思惑に沿った映像を明確に提示する、ドライヤーという監督は、劇映画を知り尽くしている。長編の劇映画を全編ほぼ、顔の表情だけで撮りきった手腕は凡庸ではない。

 80分余りの上映時間のうち、ほとんどのショットを顔だけのクロース・アップで構成しきったことには驚かされます。対立する立場の人間達の思惑、優劣、感情、葛藤、反応を、劇的に表現する事を重要視したドライヤー監督の意志ははっきりとフィルムに焼き付けられています。

 極度の緊張を強いた、この作品に主演した、ファルコネッティはこの作品とともに、彼女自身の女優生命をも絶たれました。彼女は作品での役柄同様、燃え尽きました。「一女優、一作品」を地でいった女優でした。

 決して、上手いとは言えませんが、強烈な印象を残してくれました。ジャンヌを体現して、その後一本の映画にも出演しなかった彼女には、ジャンヌのイメージしかない。何十本もの作品に出演する事もある、職業女優と違い、ただ一本のみに出た彼女には、職業的演技者にはない純粋さがある。

 また、この作品はサイレント映画ですが、映像が雄弁に物語を語るので、音の無さが全く気にかかりません。窓の鉄格子が太陽の光のかねあいで、陰を作り、十字架になる様子を見つめる彼女の表情を捉えた映像は劇的な素晴らしいショットで記憶に残っています。

 まばたきを一度もすることなく、刑に服する神の子ジャンヌから、信心を取り上げようとする司教たち。どちらが異端なのか。大英帝国の顔色を窺う司教たちは、キリストを磔にしたユダヤ人達となんら変わるものはない。

 ただ、あまりにも直接的な拷問映像やジャンヌの血を抜き取るシーンなどには疑問を感じました。見せずに表現する事も可能なのに、何故わざわざ見せ付けたのかが解りません。グロテスクで、汚らしい映像に思えました。

 作品を、より劇的にするために、象徴的な映像が数多く挿入されていて、前述した「十字架」だけではなく、処刑前のシーンでの「鳩」の映像は、「天使」が迎えに来たようにも見えますし、「平和」が訪れるようにも見えます。

 その他には対位法的に配置される、処刑場の不気味な大道芸人、観客の感情を誘導するために挿入される、彼女の火炙りを見守る群集たちの涙、燃え尽きた後に残る木杭など、この一大悲劇をさらに盛り上げるために挿入された映像もあります。

 ジャンヌ殺害後に暴動に発展して、フランス人がイギリスに対して、抵抗と憎悪を向けていくシーンはいささか劇的過ぎますが、作品の落としどころとしては妥当かと思いました。  
総合評価 91点
裁かるゝジャンヌ クリティカル・エディション
裁かるゝジャンヌ クリティカル・エディション

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豆酢館
2008/03/11 21:40
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寄り道カフェ
2008/07/17 06:07

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コメント(7件)

内 容 ニックネーム/日時
>用心棒さん
早速、再見いたしました。ほんとに凄いモンタージュですよね。
クローズ・アップやアングルショットと言う映像技術というものの意味をもっと多くの映画ファンは知るべきではないでしょうか?映画における映像と音声の関係も再検討する必要があると思います。
そして、ティパージュとスターシステムについての俳優論についても、現在もう一度考えてみる価値があるような気がします。
CG映像を一般化させるなら、過去の遺産を再整理した上での映画制作が必要であるような気がしました。
あのラストの「十字架」「鳩」のインサートは素晴らしいモンタージュでしたね。
トム(Tom5k)
2006/08/13 13:13
追記
先ほどロベール・ブレッソンの『ジャンヌ・ダルク裁判』もレンタルしてきました。
トム(Tom5k)
2006/08/13 13:15
 トムさん、こんばんは。
 ロベール・ブレッソン監督は『シネマトグラフ覚書』のなかで、ドライヤー監督の演出に対して酷評を与えていますが、それはあのシネマが観客に与えた影響力の凄まじさを認めることの裏返しです。
 シネマ的な映像、つまり映像自体が雄弁に観客に語りかける意味や、ショットの塊が新たな意味を構築するモンタージュが意図的に観客の感情を誘導する危険性を述べたのでしょう。
 まあ全ての映像に作意(創り出す制作ですから)は在るわけで、作意のない映像は映画ではない。あとは各々の持つセンスがどれだけ優れているかしかありません。
 極論すると全ての映画は同じような題材を扱っていますが、出来栄えには天と地以上の開きがあります。だから映画を見るのはスリリングなのではないでしょうか。
用心棒
2006/08/13 18:30
>ロベール・ブレッソン監督は・・・ドライヤー監督の演出に対して酷評
このことは存じておりませんでした。おっしゃるとおり前作は説得力がありすぎたのでしょうね。そして、宗教裁判への批判とジャンヌ・ダルクの悲劇性が、いささか類型的・膠着的な印象に危険性を感じたのかもしれません。
ブレッソンの演出はリアリズムの極致で、恐ろしいまでの突き放した描写の連続です。主人公ジャンヌ・ダルクにすら客観描写を貫いています。極端に言うと“一体この監督は誰のための何のテーマを描きたいのだろう?”と疑問符まで浮かんできます。わたしからすれば感情移入への責任を見る側に突きつけてくるようなリアリズムです。
この2作品を観ちゃうと、リュック・ベッソンには、もっと頑張ってもらわなきゃならんと思ってしまいます。
ジャック・リヴェットやイングリット・バーグマンのジャンヌも観たくなりました。
では、また。
トム(Tom5k)
2006/08/14 00:23
 トムさん、こんばんは。
>感情移入への責任を見る側に突きつけてくるようなリアリズム
 ブレッソン作品はかなり重たいものが多く、苦労するのですが、たまたま彼の著書である『シネマトグラフ覚書』が手に入り、彼の映画についての考え方に触れました。
 彼の活動写真においては、いわゆる俳優は必要ではなく、ただそこに人(モデル)として存在していれば、それで良い。不自然な作為(演技)は一切必要ない。
 削げるものは全て削ぎ落とした彼の作品は彼自身の演出すら拒むような厳しいもので、これこそが、シネマ(劇映画)ではない活動写真への回帰と新生なのかもしれません。
 彼の『ジャンヌダルク裁判』はシンプルだが恐ろしく切れ味の良い作品でした。ドライヤー作品よりも、ブレッソン作品の方が危険に思えます。
 バーグマンのジャンヌは彼女の年齢が行き過ぎていたため、現実味が皆無で、かなり酷かったですよ。
 彼女は昔からジャンヌをやりたかったそうなのですが、いざ出来る立場になったときにはジャンヌの賞味期限を過ぎていたということでしょうか。リヴェットのはとにかく長く、途中で挫折しました。ではまた。
用心棒
2006/08/14 00:58
用心棒さん、こんばんわ。少し前に書いたこの映画の記事をTBさせていただきます。
用心棒さんの記事と自分のそれを比べてみると、“映画への評価”といった点からずれてしまった感があるのですが、まあよろしくお収めください。
ブレッソンの酷評については「ヌーヴェル・ヴァーグの時代」でも認知しておりました。こんなにすさまじい作品にケチをつけるなんて、やっかんでんじゃないのかと思ったぐらいです(笑)。用心棒さんのご説明どおりの理由であったわけですが。
で、そのブレッソン版ジャンヌも観ましたが、そのものすごく温度の低い映像に、拒絶されたかのような印象を受けました。ただ、ジャンヌ像に関しては、どのジャンヌ映画よりも彼女を完全な聖女と位置づけているようにも感じ、大変興味深かったですね。
豆酢
2008/03/11 21:50
 豆酢さん、こんにちは!
 極論すると、ドライアー版とブレッソン版の二つを観れば、ジャンヌダルク物は十分かもしれませんね。
 観客の感情に迫ってくる前者とすべてを突き放すかのような後者では観る者の印象は大きく異なるのかもしれませんが、どちらもそれぞれ名画と呼ぶに相応しいインパクトを与えてくれます。ドライアー作品はこれと『ヴァンパイア』『奇跡』『ガートルード』しか見ていませんが、映像の力強さは衰えていません。
 ではまた!
用心棒
2008/03/12 15:02

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