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ロベール・ブレッソン監督という名前は、映画ファン、なかでも『シネマトグラフ覚書』などに代表される彼の映画哲学に興味ある人々にとっては、特別な意味を持ちます。『ゴダールの映画史』でも度々引用された、彼の映像哲学は今読み返してみてもとても新鮮なものであり、自分にとっては『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』とともに何度か読み返している映画関係の書籍です。 100歳近くまで生きた、ブレッソン監督ですが、多くの作品を残した訳ではなく、『田舎司祭の日記』、『バルタザールどこへ行く』、『スリ(掏摸)』など僅か14本の長編作品を監督したに過ぎません。「量よりも、質」を重視した映画作家であり、「質より量、さらに金!」という現在一般の映画商売とは一線を画した、孤高のスタイルと意志を持つ作品群はどれも貴重であり、もっと見られるべき作品です。 なかでもこの『ジャンヌダルク裁判』は、カール・ドライヤー監督の名作『裁かるゝジャンヌ』と並び、ジャンヌダルク物では最高峰の質の高さを誇っています。ドライヤー監督の目指した劇的な映画(シネマ)と、それを否定するブレッソン監督の活動写真(シネマトグラフ)には、各々の良さがそれぞれにありますので、一緒に書かずに、別々に焦点を絞って書いていければ良いと考えております。 ちなみに映画史上、もっとも最低だった、ジャンヌダルク・ムービーはイングリッド・バーグマンが主演した時のジャンヌである事に異論を唱える映画ファンは、おそらくバーグマンの身内か彼女のファンだけでしょう。意地でもジャンヌを演じたがるバーグマンを、ヒッチコック監督も、かなり軽蔑していたようでした。 たしかこの当時のバーグマンは既に三十路をとうに超えていたはずであり、10代の乙女を演じるにはかなり無理があり、ロッセリーニと不倫していた頃とも重なりますので、ハリウッド・スターとしてのネームバリューだけで、ジャンヌ役を我が物にした彼女に対しては、さすがのハリウッド映画ファンも冷淡だったようです。最近、廉価DVDでこの作品が名作であるかのように書かれていたのには呆れ果てました。 さて、1962年といえば、もうカラー作品の方が多くなってくる頃ではありますが、あえて主題の深刻さからか、モノクロ・フィルムで制作しています。白黒をはっきり決着付ける裁判劇であるのに加え、さらにその裁判が、悪魔と天使を選別する魔女裁判である事を踏まえると、より劇的になるのが、このモノクロ・フィルムの選択につながったのでしょう。 ブレッソン監督は、通常一般の虚飾に満ちた、お約束の「劇的」な演出については、ことごとく拒否しているように思えます。しかし極限まで無駄を削ぎ落とされた、この作品には見るべきポイントが数多くあります。一般に映画での必要条件には演技、演出、脚本、音響などが挙げられますが、彼のこれらについての考え方は、この作品にも表現されていて、彼の独特な感性を味わうことが可能です。 ラスト・シーンでの仰角のカメラワーク、覗き見する看守(一般的な下賎な人々の興味本位の視点を代表する。)の視点を多く用いる事により、主観ショットの有効性を映像で語る。また極端なまでにクロース・アップやドリー(移動撮影)を拒否した制作姿勢は、ドライヤー監督の『裁かるゝジャンヌ 』へのアンチ・テーゼであることは間違いありません。 さらにショットの秀逸さは目を瞠るものがあります。オープニングとクライマックスで見られる、足元の様子だけで何が始まるのかを期待させ、予見させる映像はヒッチコック監督の『見知らぬ乗客』(1951)の見事なオープニングを思い出させました。 白い色が黒い色に覆いつくされるオープニングでは、白装束のジャンヌが、黒装束の司教たちにどう拷問されて、追い詰められていくのかを端的に物語ります。クライマックスでの、刑場に向かうジャンヌの足を払おうとする、野蛮人たちの下劣な足先には怒りが込みあがる。 味方の司教と、敵対する司教を身に着けている衣服で色分けしたり、ジャンヌ役を務めた、フロランス・カレに、カメラが出来るだけ接近せずに、しかし彼女の悲痛な心の叫びを彼女の強い眼力と映像で表せるように、細かく、そしてテンポ良く、カットを割っていきます。パンやドリーを全く使わず、固定カメラを使った、写真(ショット)の積み上げで物語を語っていく、武骨なスタイルこそが、まさに彼が提唱する「シネマトグラフ」なのではないか。 一見、まったくカメラ・テクニックを使っていないようには見えますが、そうではなく、自分の中にカメラ・ワークへの厳しい制約を設けて作り出したのが、この『ジャンヌ〜』なのです。使えるテクニックを極限まで減らしながら、これ程見事な映画を製作したのです。こういうのを巨匠の仕事というのでしょう。 演技に対する彼のスタンスもまた独特なものがあります。既存の俳優は要らない。モデル(彼は自作に出演する人間をこう呼びます)が存在していれば、その存在が台詞ではなく、身体全体で物語と感情を語る。演劇的手法を全く拒否する彼にとって、既存の俳優は邪魔でこそあれ、必要は無い。 台詞についても独特な姿勢を持っていて、素人同然の人々を使うので、当然いわゆる名演は期待できません。しかし、これも彼の狙いであり、彼が欲しいのは、役者芝居のように、どう演じるかではなく、身体全体で何を語るか、つまり人物そのものが醸し出す、メッセージの方が大切だったのです。 演技を否定して、存在で語らせようとする彼の考え方は貴重です。台詞自体も、実際の、司教たちとジャンヌとの火花が散るような、異端裁判でのやり取りから抜粋された言葉が、台詞として採用されています。 また、音響の使い方も極端に制限されていますが、これもクライマックスでの「火あぶり」での業火に包まれるジャンヌを捉える時に最も大きな音を出すための布石です。作品全体の中で、何処に最も大きな音をもってくるかを決めるのも監督のセンスです。 自然音のみが持つ迫力を、完璧に映画に取り込んでいます。裁判を見守る群衆の下卑た野次やざわめきは、すべて音のみで処理されていて、醜い群集がフィルムに映りこむことはほとんどありません。一見技巧的には見えない作品ではありますが、超絶の技巧を随所にちりばめています。 オープニングの不気味なドラム・ロールはクライマックスでも再び提示されます。フランシス・セイリングが音部門の責任者を務めていますが、彼とブレッソン監督の間で、音の扱い方に対する話し合いが持たれたのでしょう。この音響でスクリーンが満たされる時には、ジャンヌが磔にされ、火あぶりにされた後の木杭が燃えかすとなって、屹立していました。恐怖の映像とはこういうものを指すのでしょう。 減量に減量を重ねた、タイトル・マッチ前のボクサーのような、研ぎ澄まされた感覚を持つこの作品を深く理解して、鑑賞していただきたい。演技そのものは、彼がモデルと呼ぶ、素人同然の出演者達を使ったため、滑らかな演技とは言い難いのですが、裁判でのやり取りそのものの事実を積み重ねていく事により、深みのある作品になっています。 業火に焼かれるジャンヌの魂の叫びが聞こえてくる。ロベール・ブレッソン、見るべし。 総合評価 95点 ジャンヌ・ダルク裁判
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ロベール・ブレッソンを観る@ 「スリ(掏摸)」
PICKPOCKET 1960年/フランス/76分 ...続きを見る |
寄り道カフェ 2008/06/17 00:09 |
ロベール・ブレッソンを観るA 「抵抗(レジスタンス)〜死刑囚の手記より〜」
UN CONDAMNE A MORT S'EST ECHAPPE OU LE VENT SOUFFLE OU IL VEUT A MAN ESCAPED 1956年/フランス/100分 ...続きを見る |
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ロベール・ブレッソンを観るB 「ラルジャン」
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寄り道カフェ 2008/06/17 00:10 |
「裁かるゝジャンヌ 」そして 「ジャンヌ・ダルク裁判」
ロベール・ブレッソン監督「ジャンヌ・ダルク裁判」 そしてしばらく期間をおいてから サイレント映画であるカール・テオドール・ドライエル監督「裁かるゝジャンヌ 」を観た。 どちらもモノクロ映像。 ...続きを見る |
寄り道カフェ 2008/07/17 06:06 |
『真夜中のミラージュ』@〜「シネマ=ヴェリテ(「映画=真実」)」ベルトラン・ブリエ〜
1920年代、旧ソ連邦の映画作家ジガ・ヴェルトフは、プドフキンのモンタージュ論が発表された翌年、レンズの力を単なる事実の再現に留まらない表現技法としての「キノキ(映画=眼(カメラ・アイ))」論を主張し、「キノ=プラウダ(映画=真実)」を唱えました。その後、旧ソ連邦の記録映画作家たちは、革命後の社会主義国家内での実録編集を基本にした短編映画「キノ=プラウダ」シリーズの発表を続け、ドキュメンタリー手法の基礎を築いていきました。 ...続きを見る |
時代の情景 2008/08/19 22:10 |
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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今晩は。先ほどは「バンテージ・ポイント」TBありがとうございました。「貧困大国アメリカ」の印象がまざまざと残っている頭でみたから、余計に敏感になってしまう…です(笑) |
シュエット 2008/06/17 00:22 |
シュエットさん、こんばんは! |
用心棒 2008/06/17 01:22 |
用心棒さん!ありがとうございます。 |
シュエット 2008/06/17 21:06 |
シュエットさん、こんばんは! |
用心棒 2008/06/17 23:34 |
「パリは燃えているか」いざ感想を書いていると、なんかコレって一筋縄ではないなって気がする。ふんふんなんて分かったつもりでいざ頭の中の言葉を文字にしていくと、なんか違うなって気がして上手く整理できない。で、私も今3回目かな今伴奏中。昨日は観てから「鉄路の闘い」みました。これは熱くなる!。こんなんみるとはやはり「パリは〜」も本当はクレマンは何を描きたかったんだろうってのが頭もたげてきて……。最近ブレッソンみてクレマンみて、みていても頭が冴えてきて夜中まで起きている日々です。 |
シュエット 2008/06/19 20:32 |
シュエットさん、こんばんは! |
用心棒 2008/06/19 20:54 |
次の日に「裁かるるジャンヌ」あげてらしたんですね。私はブレッソン作品ということで本作を早速にレンタルしたのですが、今まで以上にそっけなく戸惑ってしまい、観たもののこちらにコメントすらいれられないところで、しばらく寝かせていたのですが、先日、別のTSUTAYAでふとドライエルの「裁かるるジャンヌ」を目にし、借りてみてあまりの酷似に驚きました。それで、やっとブレッソン作品が判ったように思いました。 |
シュエット 2008/07/17 06:19 |
こんにちは! |
用心棒 2008/07/17 10:41 |
用心棒さん、この作品観てから、時間が経ちますが、関連記事で更新したのでTBしました。また、記事紹介も合わせさせてもらっています。 |
トム(Tom5k) 2008/08/19 22:22 |
トムさん、こんばんは! |
用心棒 2008/08/19 22:33 |
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